2012/07/27

人類の軌跡その437:フランスの状況③

<ナポレオン3世時代のフランスその③>

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◎パリ・コミューン

 パリの市民達は、臨時政府の降伏に怒りを覚え、更にヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を挙行される屈辱が我慢できません。
アルザス・ロレーヌの割譲も、50億フランの賠償金も、講和の条件のすべてが屈辱でした。
「フランスはもっと戦える」、そう考えたパリ市民が1871年3月、臨時政府に反乱を起こしたのです。パリ市民は、パリに新たに政府を組織しました。
これがパリ・コミューンです。
ティエールをはじめとする臨時政府はパリから脱出しヴェルサイユに移動しました。

 この時フランスに二つの政府が形成され、パリ・コミューンは労働者の政府で政策も急進的、選出された議員には社会主義者が多く、政府の機構や政策から、史上初の社会主義政権という評価も存在しています。
政府といっても、パリの街を実効支配しているだけですが、人口160万に及ぶフランスの首都であり、
ドイツ=プロイセンは臨時政府に圧力をかけ、対ドイツ=プロイセン徹底抗戦を叫ぶパリ・コミューンに対して臨時政府はどう対処するか、迫ります。
臨時政府としては、パリ・コミューンを鎮圧したいものの兵力が無く、ドイツ=プロイセン軍の捕虜になっていたフランス兵を釈放して貰い、13万の兵力でパリを包囲し、5月にはパリに突入、パリを守るコミューンの兵士=パリ市民との市街戦に発展していきました。
同じフランス人同士の戦いで、更に、市街戦が行われているパリの周囲にはドイツ軍が陣取り、戦いの成り行きを見守る状況です。

 最終的に、装備で勝る臨時政府側が鎮圧に成功してパリ・コミューンは崩壊しました。
コミューン側の死者3万、この後、臨時政府はドイツと正式な講和条約を結び、ドイツ=プロイセン軍はフランスから撤兵していきました。

 僅か72日間で崩壊しましたが、パリ・コミューンは当時ヨーロッパで注目を集め、其れは、この政府が、労働者によってつくられたからです。
労働者と反対の立場の人も含めて、この政府の結末を、固唾をのんで見守っていました。
崩壊後も、社会主義を実現させたものとして、多くの政治学者の研究対象になっていますが、マルクスはパリ・コミューンを高く評価している事で有名です。

 パリ・コミューンを鎮圧した臨時政府は、この後ティエールが大統領となり政治を運営します。
しかし王党派と共和派の対立が続き、1875年ようやく新憲法が制定され、此れを第三共和国憲法と云い、ナポレオン3世退位後のフランスの政体は共和政、フランス史上三回目の共和政なので第三共和政、従って憲法も第三共和国憲法。

 第三共和国発足後のフランス政局は、小党分立状態が続き安定せず、クーデター事件も起こりますが、一方では海外に植民地を獲得し、資本主義はますます発展していきました。
第三共和政は、1940年、第二次世界大戦でドイツに敗れる迄続く事になります。

フランスの状況終わり・・・


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