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2012/08/01

人類の軌跡その441:オスマン・トルコ帝国の衰退

<露土戦争①>

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◎19世紀後半のヨーロッパ諸国

 オランダ・ベルギー両地域は、ヨーロッパでも先進地域であり、立憲君主国として工業が発展します。
スペイン・ポルトガルは、商工業ブルジョアジーの基盤が弱く、大地主による政治支配が続いています。
スウェーデンでは、19世紀初頭に憲法を制定し、責任内閣制度が確立。
ノルウェーは、当時、ウィーン会議後スウェーデン領に成っていましたが、1905年に国民投票で独立を果たします。
デンマークでは、1864年、デンマーク戦争でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方をドイツに割譲され、農業牧畜による経済建設を進めていました。
フィンランドは、1809年以降ロシアの支配下と成りますが、1917年に独立。
スイスは、1848年に民主的連邦制憲法を制定。

◎露土戦争

 オスマン帝国の弱体化に関しては、以前にも触れましたが、ヨーロッパで勃興していた政治や経済の変化を取り入れる事が出来なかった事が、衰退の大きな原因です。

 オスマン帝国のヨーロッパ部分の領土がバルカン半島で、オスマン帝国の弱体化に迎合する様に、このバルカン半島でスラブ人による民族運動が活発化していきます。
これを、汎=スラブ主義と呼び、スラブ人の大国であるロシアが、この汎=スラブ主義の運動を後押ししていました。
オスマン帝国内のスラブ人の独立運動を支援するこの行為は、当に南下政策の表れで、ロシアの友好国乃至は同盟国を形成する事によって、南方に勢力の拡大を図り始めた結果でした。

 具体的に、1875年には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでオスマン帝国の支配に対して反乱が起こり、ブルガリアでも独立運動が起こります。
当然、これ等はオスマン帝国によって、弾圧されましたが、背後に存在するロシアとオスマン帝国の対立は、一層根深いものに成りました。

 険悪な空気が漂う中、終にロシアとオスマン帝国の間で、砲火を交える事態が発生しました。
1877年から78年迄続いた露土戦争で、オスマン帝国内のスラブ人救済を名目にロシアが宣戦してもので、戦争が長期化し、クリミア戦争の時のようにイギリスやフランスが介入する事が無い様、ロシアは戦いを有利に進めると、急いで休戦条約を締結しました。

続く・・・

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