2012/08/04

人類の軌跡その444:ラテンアメリカの独立②

<ラテンアメリカの独立その②>

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サントドミンゴの戦い

◎ハイチの独立

 18世紀後半、イギリスの13植民地でアメリカ独立革命が発生しても、ラテンアメリカの植民地では独立への動きはありませんでした。
ラテンアメリカで独立へ向けた具体的な動きは、フランス革命とナポレオン戦争と云うヨーロッパの大変動の影響によって始まりました。

 ラテンアメリカの独立はハイチに始まります。
ハイチは、西インド諸島イスパニョーラ島の西側に位置するフランス植民地で、この島はハイチ島、サント・ドミンゴ島と色々な呼ばれ方をしますが、本来島全体がサント・ドミンゴと呼ばれるスペインの植民地でしたが、17世紀中頃から島の西部にフランス人がスペインに無断で居住を始め、事実上西部を占拠してしまいます。
衰退しているスペインは、フランス勢力を追放する力は既に存在せず、17世紀末にはフランスの行為を追認し、正式にフランスの植民地サン・ドマングが成立しました。
当時の地図を見ると、島の真ん中に直線で国境線が書かれています。
ここでフランス人入植者達は黒人奴隷を使役して、サトウキビ栽培で利益を上げて行きました。
(ハイチの人口構成は、白人4万人、黒人奴隷45万人、ムラート及び自由黒人3万人)

 1789年、フランス本国で革命が始まり、サン・ドマングからも三部会とそれに引きつづく国民議会に議員が送られました。
彼らは、勿論白人プランテーション経営者の利害を代表していたのですが、フランス革命が進行すると、議会では、彼らの意図に反して、奴隷制廃止や自由黒人とムラートへの参政権付与などが検討されはじめます。
その話が伝わったサン・ドマングでは、1791年に島の北部で黒人奴隷が反乱を起こし、南部ではムラートと白人の対立が激しくなり、1792年にはフランス本国の国民公会から、ジャコバン派の政治委員が着任しましたが、奴隷を所有する島の白人は反革命ですから、混乱は更に深まり、1793年、対仏大同盟が発足し、フランスが周辺諸国と交戦状態になると、イスパニョーラ島東部のスペイン植民地から、スペイン軍とイギリス軍が西部のサン・ドマングに侵攻して来ました。

 この時に登場するのが、黒人奴隷反乱のリーダーの一人だったトゥーサン・ルーヴェルチュールです。
解放奴隷で可也の教養が在り、彼は、ジャコバン派政府と手を結ぶと、スペイン軍とイギリス軍を撃退し、サン・ドマングの実権を掌握、フランス政府は、サン・ドマングを敵国の侵略から守る為には、トゥーサン・ルーヴェルチュールの協力が不可欠な事から、1799年には彼をサン・ドマングの副総督兼総司令官に任命します。
国民公会は既に1794年に奴隷制廃止を宣言しており、トゥーサン・ルーヴェルチュールの下で、サン・ドマングの奴隷制は終焉を迎えました。
1801年には、トゥサン・ルーヴェルチュールは独自の憲法を発布してサン・ドマングの終身総督に就任し、事実上の独立に向けて動き出します。

 1802年、フランスで独裁者となったナポレオンが、アミアンの和約でイギリスと和平を結ぶと、フランス艦隊はイギリス海軍に妨害されず大西洋横断ができるようになりました。
ナポレオンはサン・ドマング独立の動きを許さず、2万2千の遠征軍を送ってトゥーサンを捕らえ、フランスに送られたトゥサンは1803年に獄中で死亡します。
しかし、トゥーサン・ルーヴェルチュールの部下の抵抗によってフランス軍はサン・ドマングを制圧に失敗し、1804年にはサン・ドマングは国名をハイチとして独立を宣言しました。
世界初の黒人共和国の成立で、アメリカ大陸及びカリブ海地域では、アメリカ合衆国に次ぐ2番目の独立国と成りました。

続く・・・
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