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2012/08/06

人類の軌跡その445:ラテンアメリカの独立③

<ラテンアメリカの独立その③>

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サン・マルティン(左)とシモン・ボリバル(右)

◎南米スペイン植民地の独立

 スペイン領の独立もナポレオンが本国にもたらした変動をきっかけに始まりました。
ヨーロッパを支配下に置いたナポレオンは、1808年、スペインでブルボン家の王を退位させ、自分の兄ジョセフをスペイン王として即位させましたが、スペイン国民の多くはこれを認めず反乱を起こし、各地に評議会とよばれる自治政府が成立しました。

 アメリカ大陸のスペイン植民地は、いくつかの副王領に分けられ、スペイン国王から任命された副王によって統治されていました。
各地の副王は、ナポレオンの兄のスペイン国王を支持すべきか、評議会側つまり前の国王政府を支持すべきか迷います。
植民地当局の動揺は、独立を求めるクリオーリョ達にとっては絶好機で、政治的経済的にスペイン本国の植民地政策に不満を持っていた彼等が中心に成り、1810年には南米各地で自治と独立を求めて評議会が作られていきました。具体的には、ベネズエラのカラカス、アルゼンチンのブエノスアイレス、チリのサンチャゴ、コロンビアのボゴダ。

 但し、これ等の活動が直ぐに独立そのものに結びついた訳では在りません。
カラカスを中心とするベネズエラでは、1811年に独立宣言が出されますが、スペイン軍によってカラカスは直ぐに制圧されてしまいます。
これに屈せずに、スペインからの独立を目指して戦い続ける人物がカラカス出身のクリオーリョ、シモン・ボリバルでした。

 1811年以後、ボリバルはスペイン軍とカラカスの争奪戦を繰り返します。
1814年にナポレオンが没落し、復活したブルボン王家が植民地の独立派に対して攻勢をかけるようになると、追いつめられてイギリス領のジャマイカに亡命しますが、その後も、黒人共和国のハイチに支援を求め、粘り強く活動を継続しました。

 ベネズエラでの運動が行き詰まったボリバルは、攻撃の矛先をヌエバグラナダ(現コロンビア)の中心都市ボゴダ(現コロンビアの首都)に変え、1819年、スペイン軍を打ち破りボゴダを副王の支配から解放しました。
ここから、ボリバルの大活躍が始まります。

 まず、ボリバルは大コロンビアの樹立を宣言します。
コロンビアは、コロンブスに因んで命名された国名ですが、大コロンビアは現在のコロンビアとは異なり、現コロンビアにベネズエラ、エクアドル、パナマを含めた地域でした。
しかし、実際にはこの時点でベネズエラもエクアドルもスペインが実効支配しています。
 
 ボリバルは南米の植民地を一つにまとめて独立をしようとしていますが、地域毎の利害関係が異なる為に各地のクリオーリョ達は互いに対立し、それぞれ別個に独立を求めています。
しかし、この段階では、一先ず剣を収めて、独立軍を率いてスペイン軍と戦っているボリバルを支援しようとしました。
 
 この後、1820年にスペインで立憲革命が起こり植民地への圧力が弱まると、ボリバルは、21年にカラカスをスペインから奪回し、ベネズエラを解放、翌22年にはエクアドルの中心都市キトを解放しました。
ボリバルは更に南のペルーの攻略を目指します。
ペルーはインカ帝国の中心地域だった地域で、副王が置かれたリマは、スペイン本国による南アメリカ支配の拠点でした。
リマ副王府の支配体制は強固で、スペイン本国の政治情勢の変化にも揺らぐ事はありませんでした。
スペイン本国の情勢の変化によって、植民地の独立運動が左右されてきた事を考えると、大コロンビアの独立を確実なものにするには、情勢が有利なうちにスペイン支配の拠点であるリマ及びペルーの攻略をしておかなければならないと、ボリバルは考えたのです。

続く・・・
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