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2012/08/07

人類の軌跡その446:ラテンアメリカの独立④

<ラテンアメリカの独立その④>

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サンマルティン将軍像Jose' Francisco de San Marti'n

◎南米スペイン植民地の独立②


 同じ時期、アルゼンチンのサン・マルティンもペルー攻略の必要性を考えて、軍事行動を起こしていました。
時代が遡りますが、ナポレオン戦争中の1806年、イギリス軍がアルゼンチンのブエノスアイレスを占領した事があり、此の時、ブエノスアイレスのクリオーリョ達が、スペイン軍の力を借りずにイギリス軍を追い出すことに成功して以来、ブエノスアイレスは独立派が強く、1816年にはリオ・デ・ラプラタ連合州として独立を宣言しました。

 当時、ブエノスアイレスは、アルゼンチンで成長しはじめた農牧業の皮革輸出港として栄えていましたが、南アメリカ全体からみると、経済的にも政治的にも大きな影響力を持っていませんでした。
従って、スペイン本国が立ち直り、ペルー副王が勢力を盛り返せば、独立は潰されてしまう可能性が高かったのです。
そこで、情勢が有利なうちにペルー攻略を計画した人物が、アルゼンチンの軍人サン・マルティンです。
現在のボリビアからペルー方面に侵攻する方法が最短距離なのですが、ボリビア方面の副王軍は強力で簡単に攻め込む事が出来ず、その為、サン・マルティンはアンデスを越えてチリに進出し、チリから海路ペルーに向かうという作戦を立てます。

 1818年、約5000の兵力を率いたサン・マルティンはチリに進入し、スペイン軍を破りチリを解放、チリで艦隊を整え1820年にはペルーの海岸に上陸、21年にはリマに入城しペルーの独立を宣言しました。
只、此の時ペルー副王軍は、戦略的にリマから高原地帯に撤退したもので、その勢力は依然として優勢であり、サン・マルティンは、その後の方策に行き詰まってしまいました。

 時を同じくして、北からボリバル軍が南下、エクアドルを解放したのです。
サン・マルティンはエクアドルのグアヤキルに赴き、ボリバルと会見します。
この時、如何なる話し合が行われたか、不明なのですが、サン・マルティンの援軍要請をボリバルが拒否したらしいのです。
此の後、勢力を保てなくなったサン・マルティンはチリに撤退し、変わりにボリバルの軍隊がペルーに進出、1823年には副王軍を破りペルー解放に成功します。
25年には、ボリバル軍は上ペルーで最後迄残っていたスペイン軍を破り、上ペルーを解放します。
此の時に上ペルーは、ボリビアとして独立を宣言しました。
因みに、この国名はボリバルの名からつけられたものです。

 この時期がボリバルの活動の絶頂期で、アルゼンチンとチリを除くスペイン領南アメリカをほぼ独力で解放したのです。
次の段階としてボリバルは、これら総ての地域を統合した国家建設を目指しましたが、各地域はボリバルの統制から離れて独自に国家形成をはじめ、ボリバルはこの潮流を止める事が出来ず、失意の内にヨーロッパに去る決意をし、渡欧直前の1830年に持病の結核が悪化して死去します。

 一方のサン・マルティンは、リマを去った後は、やはり失意の為に隠遁生活に入り、1824年にはフランスに渡り、世間からすっかり忘れ去られたまま1850年に世を去りました。
ボリバルもサン・マルティンも、現在はラテンアメリカ独立の英雄として讃えられていますが、その晩年は寂しいものが在ります。

続く・・・
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