人類の軌跡その447:ラテンアメリカの独立⑤
<ラテンアメリカの独立その⑤>

「メキシコ独立の父」ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo:1753年5月8日-1811年7月30日)
◎メキシコの独立
メキシコは、メキシコ市に副王が置かれ、南米のペルーと並んでスペイン植民地の中心の一つでした。
19世紀に入ると、独立を目指すクリオーリョ層の勢力が成長してきますが、それに劣らず副王政府の支配体制も強固でした。
1810年、ドロレス村の司祭イダルゴ神父の呼びかけで民衆反乱が勃発し、イダルゴ神父は「グアダルーペの聖母様万歳、悪いスペイン人(本国人)を追放せよ」というスローガンを唱え、先住民やメスティーソの気持ちを掴みました。
短期間の内に反乱軍は、6万人に及ぶ勢力に増加し、メキシコ市に向かって進撃を始めました。
此処でグアダルーペの聖母とは、キリスト教が先住民の間に浸透する間に信仰される様になった、メキシコの聖母です。
この反乱は、最下層の人民からの素朴な独立要求とも言えますが、彼等は、進軍の途中で、白人に対する虐殺を行なった為、独立を求めるクリオーリョ層は、イダルゴの反乱勢力ではなく、副王政府側と協力し反乱鎮圧に回りました。
反乱軍は、人数が多いとは云え、農民層が中心であり、1811年イダルゴは捕まり処刑され、反乱は鎮圧されました。
副王政府は危機を乗り切ったかの様に思えたのですが、スペイン立憲革命の翌年の1821年、イダルゴ反乱軍の残党を鎮圧する為に出動した副王軍の将軍が、副王政府を裏切って独立宣言を出すと云う形で、本国から独立してしまいました。
この事件は、スペイン政府の権威が地に墜ちていた結果と云えるかもしれません。
◎ブラジルの独立
ポルトガルの植民地であったブラジルは、スペイン領とは違う経過を辿って独立します。
ポルトガルはイギリスとの関係が深く、ナポレオンに屈服しなかった為、1807年、ナポレオン軍がポルトガルに侵攻すると、政府宮廷がイギリスの艦隊に守られてブラジルに避難し、植民地が本国扱いに成りました。
宮廷が疎開したリオ・デ・ジャネイロは、この間に整備され、都市として発展します。
ナポレオン没落後、1822年に国王はポルトガルに帰還するのですが、この時ブラジルに残留した皇太子が、ブラジル帝国の独立を宣言し皇帝に即位して本国から独立しました。
続く・・・

「メキシコ独立の父」ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo:1753年5月8日-1811年7月30日)
◎メキシコの独立
メキシコは、メキシコ市に副王が置かれ、南米のペルーと並んでスペイン植民地の中心の一つでした。
19世紀に入ると、独立を目指すクリオーリョ層の勢力が成長してきますが、それに劣らず副王政府の支配体制も強固でした。
1810年、ドロレス村の司祭イダルゴ神父の呼びかけで民衆反乱が勃発し、イダルゴ神父は「グアダルーペの聖母様万歳、悪いスペイン人(本国人)を追放せよ」というスローガンを唱え、先住民やメスティーソの気持ちを掴みました。
短期間の内に反乱軍は、6万人に及ぶ勢力に増加し、メキシコ市に向かって進撃を始めました。
此処でグアダルーペの聖母とは、キリスト教が先住民の間に浸透する間に信仰される様になった、メキシコの聖母です。
この反乱は、最下層の人民からの素朴な独立要求とも言えますが、彼等は、進軍の途中で、白人に対する虐殺を行なった為、独立を求めるクリオーリョ層は、イダルゴの反乱勢力ではなく、副王政府側と協力し反乱鎮圧に回りました。
反乱軍は、人数が多いとは云え、農民層が中心であり、1811年イダルゴは捕まり処刑され、反乱は鎮圧されました。
副王政府は危機を乗り切ったかの様に思えたのですが、スペイン立憲革命の翌年の1821年、イダルゴ反乱軍の残党を鎮圧する為に出動した副王軍の将軍が、副王政府を裏切って独立宣言を出すと云う形で、本国から独立してしまいました。
この事件は、スペイン政府の権威が地に墜ちていた結果と云えるかもしれません。
◎ブラジルの独立
ポルトガルの植民地であったブラジルは、スペイン領とは違う経過を辿って独立します。
ポルトガルはイギリスとの関係が深く、ナポレオンに屈服しなかった為、1807年、ナポレオン軍がポルトガルに侵攻すると、政府宮廷がイギリスの艦隊に守られてブラジルに避難し、植民地が本国扱いに成りました。
宮廷が疎開したリオ・デ・ジャネイロは、この間に整備され、都市として発展します。
ナポレオン没落後、1822年に国王はポルトガルに帰還するのですが、この時ブラジルに残留した皇太子が、ブラジル帝国の独立を宣言し皇帝に即位して本国から独立しました。
続く・・・
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