2012/08/17

人類の軌跡その452:アメリカ合衆国④

<アメリカ合衆国の発展その④>

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◎南北の対立

 西部開拓が進展し、西部に新たな州が誕生していくなかで、北部諸州と南部諸州の対立が激しくなっていきました。
対立の原因は、両地方の産業構造の違いで在り、北部では商工業が発展しつつ在った中、南部では、奴隷を使った大規模農場プランテーションが産業の中心でした。

 工業が発展しつつある北部の工場経営者にとって、ライバルはイギリス製品です。
安くて質の良い綿織物等の工業製品が、イギリスから次々に輸入されては、自分達の製品が売れません。
そこで、イギリスからの輸入品に高関税をかけて、北部の工業を保護する様に政府に求めました。
保護貿易主義の始まりです。
ここで注意が必要なのですが、貿易は、相手が存在する事が前提で、若し、合衆国が関税を引き上げれば、当然それに対抗してイギリスも関税を引き上げます。

 この様な事態を招聘して、困るのが南部でした。
南部では、綿花等の農産物をイギリスに輸出して利益を上げていましたから、当然、イギリスが高い関税を設定されれば、税金のお陰で販売価格は上昇し、当然ながら売り上げが落ちます。
その為、南部は、保護貿易主義には反対を唱え、関税をできるだけ低くする自由貿易主義を主張しました。

 この貿易をめぐる南北対立を、激化させたのが西部開拓でした。
フランスやスペインから獲得した新領土は、特定の地域で人口が増加し、一定の条件を満たすと、新たな州に昇格する事になっていましたが、この時、その新しい州に奴隷制度を認めるか否かが大きな問題に成って来たのです。
奴隷制度を認める州を奴隷州、認めない州を自由州と呼び、南部は奴隷州、北部は自由州です。
1819年迄は、22の州が在り、奴隷州11、自由州11と、両者は同数でしたが1820年に、ミズーリが州に昇格する時、北部と南部の対立が激化します。

 重要なのは、上院議員の数でした。
合衆国の上院は、各州から2名選出され、ミズーリ州が奴隷州に属するか、自由州に属するかで、北部南部の何れが国政の主導権を握る事に成ってくる訳です。
この時は、南北間で妥協が図られ、ミズーリ州は奴隷州と成りましたが、東部の自由州を分割して自由州も一つ増やす事で決着を図り今後については、新しい州ができた場合、北緯36度30分以北は自由州、以南は奴隷州にするというミズーリ協定がつくられました。

 ところが、紆余曲折の後、ミズーリ協定は破棄され、1854年のカンザス・ネブラスカ法で、州の住民投票で奴隷州か自由州かを決める事に成りました。
その結果、昇格直前の州に、奴隷州・自由州其々から移住者が流入し、多数派を占めようと画策し、住民どうしが武力抗争を繰り返します。
奴隷制度反対論者ジョン・ブラウンは、奴隷制論者を5人殺害して北部で英雄扱いに成りました(1856年)。
殺人で英雄扱いは、既に異様な状態で、以前の様に妥協によって、南北の対立を先送りする事が限界に近づいていました。

続く・・・

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