2012/08/20

人類の軌跡その454:アメリカ合衆国⑥

<アメリカ合衆国の発展その⑥>

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チャタヌーガの戦い

◎南北戦争

 共和党のリンカーンが当選すると、奴隷州の南部11州はジェファソン・デヴィスを大統領とし、アメリカ連合国を結成しました。
1861年、リンカーンは大統領に就任すると南部諸州の離脱を許さず、ここに南北戦争がはじまりました。
この段階で、リンカーンは奴隷制度を撤廃する事を明言せず、あくまでも戦争目的は、南部の分離独立の阻止でした。

 1858年、大統領に当選する前のリンカーンはこんな演説をしています。

「私は過去に於いても白人黒人両人種の社会的政治的平等を実現する事に賛成した事は無く、今日でも同様である。又黒人に投票権を与える事や陪審員にする事、役人に任命する資格を与える事や白人との結婚に賛成した事も無く、今日も賛成しない。又更に私は、白人黒人の間には身体的相違があり、その相違ゆえに社会的政治的平等の条件の下で両人種が共に生活する事は永遠に無理な事と考える。」
 リンカーンが奴隷解放をした人物である事を思い出せば、選挙前の演説とは言え、多くの人の支持を集める為の言葉なので、どこまでが彼の本音かわかりませんが、人種差別反対の旗を高く掲げていた訳では在りませんでした。

 南北戦争が始まった後、1862年の演説では、
「この戦争での私の最高の目的は、連邦を救う事にあるのであって、奴隷制度を救う事でも無ければ、また破壊する事でも無い。若しも私が、一人の奴隷を解放しなくても連邦を救えるものなら私はそうするだろう。又、若しも私が、総ての奴隷を解放する事によって連邦を救えるものなら、私はそうするだろう。」

 この連邦とは、合衆国の事で、救うというのは、分裂させないという事です。
実際に、この後リンカーンは、南部に勝つ為には奴隷を解放する事が必要だと考えるのです。
北部の人口2200万、南部は人口950万、しかもその内350万は黒人奴隷、工業力も北部が優越、北軍(合衆国政府軍)は強力ですが、実際には、南軍が北軍を圧倒する粘りを見せ激戦が続きました。
勝利と奴隷制度廃止を切り離す事が不可欠と考えたリンカーンは、1862年に初めて黒人兵を18万人採用し、1863年には、奴隷解放宣言を出しました。

 南北戦争の勝敗を決定づけたのが、1863年のゲティスバーグの戦いで、北軍8万7千、南軍7万5千が戦い、合計4万5千人が戦死する激戦でした。
南北戦争と日本では呼称しますが、アメリカでは「Civil War」、つまり内戦と呼びます。
同じアメリカ人どうしが殺し合っている訳で、戦闘が終わったゲティスバーグには、敵味方入り乱れて4万5千人の死体が散在していました。
 
この惨状を放置する事が出来ず、政府が戦場跡を整備して、戦闘の4ヶ月後、戦死者追悼集会が開かれました。ここでリンカーンは「人民の人民による人民の為の政府」と云う有名な言葉を含むスピーチを行ったのでした。
因みに、今では、民主政治の核心をつかんだ名言として有名な言葉ですが、発言現場では全然話題にならず、失敗したスピーチと思われた様です。

 ゲティスバーグで勝利した北軍は、以後優勢に戦いを進め、1865年には南軍が降伏して、戦争は終結、両軍死者、61万8千人、この戦死者数は第二次大戦での合衆国の戦死者31万8千人をも上回るものです。
南北戦争が、合衆国にとって如何に大きな事件で在ったかを、理解しておくべきです。
この後、合衆国は北部の商工業を基礎に発展していく事に成ります。

 合衆国の分裂を回避し、奴隷解放をしたリンカーンですが、勝利の5日後に暗殺され、犯人は南部出身の奴隷制支持者でした。

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黒船来航

◎日本との関連

 合衆国の海軍提督ペリーが4隻の艦隊を率いて、日本の浦賀に現れたのが1853年。『アンクル・トムズ・ケビン』出版の翌年でした。
日米和親条約が結ばれた1854年に、共和党が結成。
日米修好通商条約が結ばれた1858年、リンカーンは大統領選挙の運動中。
鎖国の日本を、武力で脅して無理矢理開国させた合衆国は、リンカーン以後、幕末日本に登場しなくなる理由は、南北戦争で、日本を相手とする余裕を欠いていた結果でした。
幕末の日本と、南北戦争はほとんど同時期ですが、明治維新の直前迄、合衆国に奴隷制度が存続した事が、大変な驚異で、南北戦争という大きな犠牲を払ってでも、奴隷制度を撤廃する事は、歴史の必然でしょう。

アメリカ合衆国、終わり・・・

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