2012/08/21

人類の軌跡その455:列強の進出①

<エジプトの自立その①>

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サウジアラビア・聖地メッカ

◎オスマン帝国の衰退

 16世紀半ば、スレイマン1世の時代に全盛期を迎えたオスマン帝国は、その後、徐々に衰退していきます。
1683年、第二次ウィーン包囲失敗が、衰退の大きなきっかけとなりました。
第一次ウィーン包囲(1529年)以後も、オーストリアとは断続的に武力衝突が発生していましたが、第二次ウィーン包囲失敗後は、オーストリアやロシア等との戦争になり、敗北したオスマン帝国は、1699年、カルロヴィッツ条約で、ハンガリー等をオーストリアに割譲しました。

 その後も、ロシアとの戦争で、18世紀後半には黒海北岸の領土を失います。
国内的には、地方総督の自立化傾向、帝国内の諸民族の独立運動が起きてくるのですが、オスマン政府は有効な対策を取る事ができず、衰退していきます。

◎ワッハーブ王国の成立と崩壊

 オスマン帝国の衰退を象徴する最初の事件が、ワッハーブ王国の成立です。
18世紀半ば、アラビア半島でイブン・アブドゥル・ワッハーブが、ワッハーブ派と呼ばれる宗派をおこしました。彼によれば、当時のイスラムのあり方は、ムハンマドの教えから 外れている為、ムハンマド時代の教えに帰れ、と云うものです。
確かに、当時多くのムスリムの心を捕らえていたスーフィズム(神秘主義)や、聖者崇拝等は、コーランの何処を探しても出てきません。
イスラムがアラブ人以外の民族に広がるなかで、つけ加えられていったものです。(現在でも、スーフィズムや聖者崇拝はあります)

 ワッハーブが唱えたのは、コーランに書いていない事は認めない、イスラム原理主義です。
これは、当時の状況を考えると、トルコ人のオスマン帝国に支配されているアラブ人が、宗教を通じて自己主張を展開している姿でした。

 やがて、このワッハーブ派を信奉したアラビア半島中央部、ネジド地方の豪族サウード家が、オスマン帝国の支配に反対し、半島にワッハーブ王国を建設、徐々に領土を拡大し、19世紀初頭には、メッカとメディナの2聖都を支配する迄に発展しました。
オスマン帝国にとって、メッカ、メディナを失う事は大失態で、辺境アラビアの出来事と、放って置く訳にはいかないのですが、この時既に、オスマン帝国は、独力でこれを討伐する力が存在しなかったのです。
結果的に、エジプト総督の援助を受けて、1818年ワッハーブ王国を滅ぼしました。

 しかし、1823年ワッハーブ王国は復興し、89年に再び滅亡しますが、20世紀初頭、サウジアラビア王国として、再度復活し、現在のサウジアラビアと成りました。

続く・・・

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