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2012/08/23

人類の軌跡その457:列強の進出③

<エジプトの自立その③>

Masakra_mameluków
シタデルの悲劇

◎エジプトの自立②

 ムハンマド・アリーは、フランス軍やイギリス軍と、実際に戦闘を交えていますから、ヨーロッパの軍隊の軍事力、組織力の高さを知っています。
そこで、エジプトの支配者となった彼は、ヨーロッパを目標としてエジプトの近代化を邁進しました。

 具体的には、西洋式の陸海軍の創設、造船所、官営工場、印刷所を建設し、近代化を担う人材養成の為、教育制度改革等を行いました。
印刷所は、イギリスやフランスの本をアラビア語に翻訳出版する為に作られたもので、アラブ地域で作られた最初の官営印刷所です。
 
 又、マムルーク達を、式典参加を理由に集合させ、一挙に虐殺することも行いました(1811年)。
彼等は、ナポレオンの遠征以前から、エジプトで一定の政治的勢力を持ち続けており、中央集権化を推進するには邪魔な存在だったのです。

 近代化政策の財源は、農業です。
「エジプトはナイルの賜」ですから、農業生産は高く、ムハンマド・アリーは、農産物輸出事業を独占し、その利益を財源としました。

 こうして、急速に軍事力を高めたエジプトが、その実力を見せたのが、1818年のワッハーブ王国の撃破でした。メッカ、メディナを占領したワッハーブ王国の討伐をオスマン帝国から依頼され、アラビア半島に出兵し、これを撃破したのです。
なぜ、ムハンマド・アリーは、オスマン帝国の要請に従ったのでしょう?
エジプトは自立していますが、其れは自立であって、独立では無く、エジプトは、オスマン帝国の宗主権を認めており、正式にはオスマン帝国の一部、ムハンマド・アリーの肩書きは、オスマン皇帝から任命されたエジプト総督なのです。

 オスマン帝国から見れば、強力なエジプトは、その配下で忠誠を尽くせば、非常に頼りがいのある臣下です。
この後、ギリシア独立戦争が勃発すると、オスマン帝国は、再度、エジプトに出兵を要請しました。
エジプトは、この要請にも応じて、ギリシアに出兵します。
オスマン帝国側は、その見返りとしてシリアの支配権を与える約束をしていました。
ところが、ギリシア独立戦争が集結しても、オスマン帝国側が、約束を履行せず、エジプトはシリアの領有を要求してオスマン帝国と開戦しました。
これを、第一次エジプト・トルコ戦争(1831年~33年)と呼び、結果は、エジプトが勝利を納め、シリアを領有する事になりました。

 この戦争で、南下政策を実現させたいロシアは、有利な条件を引き出す為にオスマン帝国を支援し、エジプトの利権獲得を目指すフランスは、エジプトを支援しました。
この地域は、アフリカ、アジア、ヨーロッパに跨り、戦略的要衝で在り、ヨーロッパ列国の関心が高く、ここでの紛争は、ヨーロッパ列国にとって、利権を拡大する絶好の機会でした。
もはや、オスマン帝国、エジプトと云う当事者だけの争いでは収まらず、当事者よりも、背後に控えるヨーロッパ列国の方が、経済的にも軍事的にも圧倒的に優位で在り、最終的には当事者を飛び越えて、ヨーロッパ列国が紛争を操り、自分達に都合の良い秩序を作り上げて行く事になるのです。

続く・・・
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