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2012/08/24

人類の軌跡その458:列強の進出④

<エジプトの自立その④>

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スエズ運河開通記念式典

◎エジプトの自立③

 1838年、イギリスがオスマン帝国とトルコ=イギリス通商条約を結びましたが、オスマン帝国に関税自主権のない不平等条約で在り、この結果、オスマン帝国の領土であるエジプトにもこの条約が適用され、エジプトの貿易は大打撃を受けました。
オスマン帝国から完全に独立を果たせば、この条約から逃れる事ができます。
そこで、ムハンマド・アリーはオスマン帝国にエジプトの独立を求め、1839年、第二次エジプト=トルコ戦争が始まりました。

 イギリスは、第一次エジプト=トルコ戦争の結果に不満を持っていました。
エジプトの領土が拡大し、其れに伴い、この地域でフランスの勢力が増した事が大きな驚異と成ったのです。
そこで、第二次エジプト=トルコ戦争が始まると、早速、この戦争の調停に乗りだし、フランスやロシアとの外向的な駆け引きの末、翌1840年、ロンドン会議で、イギリスは自らの調停案をエジプトに押しつけて戦争を集結させました。

その内容は、
1)エジプトはシリアを放棄する。
2)ムハンマンド・アリー家がエジプト総督位を世襲する。

 ムハンマド・アリーはこの内容に不満でしたが、イギリスの軍事的圧力の前に、これを承諾せざるを得ませんでした。
結局、正式に独立する事は叶いませんでしたが、ムハンマド・アリー家による総督世襲が認められ、これ以後のエジプトを、独立国家として扱っています。

◎スエズ運河

 ムハンマド=アリーの死後、エジプト総督位はその子孫が継いでゆき、ムハンマド・アリーが始めた近代化政策は、その後も引き継がれていきました。
様々な事業の中で、エジプトの運命に大きな影響を与えたのがスエズ運河建設です。
スエズ運河建設を開始した人物は、第4代総督サイイド・パシャ、彼はムハンマド=アリーの三男で、少年時代にカイロに来ていたフランス人外交官レセップスを家庭教師にしていました。
レセップスに可也傾倒していたと云われています。
三男の為、本来は総督位を継ぐ立場では無いのですが、兄や甥が次々と世を去り、総督に就任したのでした。
 
 サイイド=パシャが総督になると、フランスに帰国したレセップスがエジプトに戻り、総督との個人的な関係を利用して、スエズ運河建設を売り込んだのです。
総督は、レセップスにスエズ運河建設の許可を与えました(1854年)。

 レセップスはスエズ運河株式会社を設立し、資金を集めて1859年に着工、10年に及ぶ難工事を経て、1869年に運河は完成しました。
全長167キロメートル、幅60~100メートル、深さ8メートル、総工費は当初の予算2億フランの倍を超える4億5千フラン、工事に駆り出されたエジプト農民の死者は12万人に及びました。
建設費はエジプト政府も負担し、その費用はフランスからの借款に頼り、完成後のスエズ運河は、エジプトとフランスの共同所有となりました。

 スエズ運河の開通によって、ヨーロッパからアジアに向かう船はアフリカを廻らなくてもインド洋に抜ける事が可能と成り、費用、時間は大幅に短縮されました。
現在でも、活発に利用されているスエズ運河は、歴史的な大事業でした。

 スエズ運河開通の時のエジプト総督は、サイイド・パシャをついだイスマーイール・パシャです。
イタリアの作曲家ベルディによるオペラ「アイーダ」は、スエズ運河開通記念に建てられたカイロの大歌劇場で上演する為に、イスマーイール・パシャがベルディに作曲を依頼した作品です。
ストーリーの原案をイスマーイール・パシャが考えたという説も在り、エジプト総督がスエズ運河の開通を祝う行事に、オペラの作成を依頼するのは、当時エジプトの支配層が、ヨーロッパ文化に影響を受けていた結果です。

 エジプトは、スエズ運河の航行料収入を目論んでいましたが、これが思うように伸びず、アメリカ南北戦争のおかげで急成長した綿花の輸出による収入が、南北戦争の終結による合衆国の国際貿易復帰によって大幅な下落を示し、急速な財政悪化に困ったエジプト政府は、保有していたスエズ運河の株式を売却する決定を下します。
1875年、この株式を買収したのがイギリスです。

 この時のイギリスの首相はディズレーリ、積極的な帝国主義政策を推進し、世界に利権を拡大していました。
エジプト政府によるスエズ運河株式売却のニュースを知ると、この機会を逃してはいけないと思い、ディズレーリは議会に図らず独断で株式を買い取りました。
議会の賛成を得ていないから政府から資金の拠出は無く、大富豪ロスチャイルド家から40万ポンド(約1億フラン)を借入れたと云います。
この結果、エジプトの領土に存在するにも関わらず、スエズ運河の所有権はエジプトには無い事に成りました。

 スエズ運河株式を売却したものの、エジプトは外国から借り入れた資金の返済ができませんでした。
スエズ運河以外にも、近代化政策の為、諸外国から多額の借金をしていたのでした。
1876年、遂にエジプト政府が財政破綻すると、債権国であるイギリスとフランスが共同でエジプト財政を管理下に置きました。

続く・・・

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