2012/08/27

人類の軌跡その459:列強の進出⑤

<エジプトの自立その⑤>

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アフメド・ウラービー陸軍大佐

◎ウラービー・パシャの革命

 このような状況の中で、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、エジプト軍の将校ウラービー・パシャを中心に政治改革運動が起こってきました。

 ムハンマド・アリー以来のエジプト総督達は、近代化には熱心でしたが、立憲政治や議会政治は取り入れず、専制政治を継続しており、近代的な教育を受けたエジプト人の中から、立憲政治をめざす勢力が現れて来るのは当然です。
「エジプト人のためのエジプト」という言葉の中は、英仏から財政権を取り戻そうと云うだけではなく、アルバニア系のムハンマド・アリー朝の総督に対する批判も含まれています。

 ウラービー・パシャは、1882年、権力を掌握し、自分自身は陸軍大臣となって、憲法制定等の改革に着手します。これを見て、イギリスはフランスには通告する事無く、単独でエジプトに軍隊を派遣し、圧倒的な軍事力でエジプト軍と市民の抵抗を鎮圧、エジプトを占領下に置きました。
これ以後、エジプトはイギリスの支配下に入り、ムハンマド・アリー朝の総督はイギリスの傀儡となりました。
イギリス軍はスエズ運河警備を名目に、運河地帯に駐留します。

 改革運動の指導者ウラービー・パシャは、イギリスに逮捕されセイロン島へ流刑と成り、失敗に終わったウラービー・パシャの改革運動は、現在は「ウラービー・パシャの革命」と言われていますが、数年前迄の教科書には「ウラービーの反乱」と題されていました。
イギリスから見れば反乱ですが、視点を変えるだけで、同じ事件でも評価や呼び方が大きく変わる一例です。

 ウラービー・パシャの改革と失敗は、同時代の日本でも大きな関心を持たれ、洋行する日本政府の高官が、セイロン島のウラービー・パシャを訪ねる事が在った様です。
伊藤博文の娘婿が訪問しているとの記録も存在し、農商務省大臣秘書官が東海散士というペンネームで書いた小説『佳人之奇遇』(1885)に、ウラービー・パシャが登場します。
この小説は結構人気を得て、ウラービー・パシャは明治期の日本人にはわりと知られていたかもしれません。
エジプトの先例に学びながら、明治期の日本は国家建設を推進したのです。

エジプトの自立・終わり・・・

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