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2012/08/28

人類の軌跡その460:改革への道のり①

<オスマン・イラク・中央アジアその①>

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アブデュルハミト2世(II. Abdülhamit, 1842年9月21日 - 1918年2月10日)

◎オスマン帝国の改革

 オスマン帝国は、18世紀後半以降、オーストリアやロシアから徐々に領土を奪われ、各地で在地勢力が自立化し、それに対して有効な有効的な政策を実行する事が出来ませんでした。
改革の必要性は、統治者であるオスマン朝の上層部も十分理解していました。

 1826年には、皇帝マフムト2世により、イエニチェリが廃止されます。
1839年には、アブデュル=メジト1世がギュルハネ勅令を発布し、タンジマートの開始を発令しました。
タンジマートとは、西欧化の為の改革の事で、皇帝による上からの改革なので「恩恵改革」と訳されています。
行政、法制度、教育等あらゆる分野で西欧化が推進され、改革は「イスラム・非イスラムを問わず全臣民の法の前の平等」を謳っていたのですから、その発想はかなり進歩的です。
但し、オスマン帝国の隅々迄、改革が実現されていた訳ではなく、また、独立を求めるバルカン半島の諸民族にとっては、タンジマートは満足できる政策ではありませんでした。

 西欧化を推進する事は、必然的に西欧の論理に従わざるを得なくなります。
クリミア戦争で、英仏の援助を受けて勝利したオスマン帝国は、その英仏の要請で、非ムスリムの政治的権利の尊重を約束します。
又、外債受け入れ(英仏からの借財)、鉄道建設、イギリス資本によるオスマン銀行設立などの事業をすすめることになりました。
 
 1838年のトルコ=イギリス通商条約以来、ヨーロッパの工業製品の輸入が急増し、国内の産業が衰退した結果、オスマン帝国の財政は逼迫していました。
その様な状況の中で、借入や鉄道建設を実施した結果、1875年に、国家財政は破綻し、結局、タンジマートは、西欧諸国が経済進出しやすいように制度を整備し、その結果西欧諸国に食い物にされてしまったという結果をまねいたのです。

 経済的には、植民地化したオスマン帝国ですが、教育の西欧化等で、新しい考え方を身につけた改革派の官僚や軍人が育ち、更なる制度改革がはじまります。
1876年に発布されたミドハト憲法がその諸端でした。
立憲君主制を定めたこの憲法は、改革派の宰相ミドハト=パシャが、新皇帝アブデュル=ハミト2世を擁立して発布したもので、アジア初の憲法制定で在り、この憲法に則して、国会も開設されました。

 しかし、翌1877年、露土戦争がはじまると、皇帝アブデュル=ハミト2世は、戦争を理由に憲法を停止し、国会を解散、ミドハト=パシャを国外追放します。
こうして、アブデュル=ハミト2世は、専制政治を復活させました。
この後も、官僚や軍人の中に、専制政治に反対し立憲政治復活をめざす「青年トルコ」と呼ばれるグループが作られ、立憲革命の機会を窺い続けます。

 オスマン帝国では、西欧化=立憲政治をめざす勢力と、専制政治を維持しようとする勢力のせめぎ合いが此の後続き、第一次大戦後、西欧化勢力が政権を握り、現在のトルコ共和国が成立します。
他のイスラム諸国と異なり、オスマン帝国=トルコで、これだけ早い時期から、西欧化の試みが続いたのは、ロシアやオーストリアと国境を接していたことが大きいと思われます。
特に、オスマン帝国はロシアに敗北を続け、領土を次々に失いました。
戦争に勝つためには、西欧化しかないというのが、軍人達の実感ではないでしょうか。
青年トルコでは、軍人達が、その中心メンバーを構成し、第一次大戦後トルコ共和国を建国したケマル=パシャも軍人でした。
現在のトルコでも、イスラム政党が力をつけてくると、これに対抗して政治の世俗主義(非イスラム)を守ろうとするのは軍部です。
軍人は、一般的に保守的・反動的と思われがちですが、トルコでは必ずしも簡単に割り切れない勢力です。

続く・・・
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