2012/08/29

人類の軌跡その461:改革への道のり②

<オスマン・イラク・中央アジアその②>

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ガージャール朝第3代 モハンマド・シャー(1808年1月5日-1848年9月5日)

◎イラン

 オスマン帝国の東に接するイランの情勢は、どの様に成っているのでしょう。
過去の歴史を振り返って見れば、最初に登場するのが、アケメネス朝ペルシア、BC550年からBC330年迄、オリエント地方を大統一しました。
ギリシアに侵攻したペルシア戦争が後世迄語り伝えられ、アレクサンドロス大王に滅ぼされ、一時は、ギリシア人の支配下に入りますが、BC248年から226年迄は、パルチアが成立。
パルチアはペルシア人の国家で、西のローマ帝国と対立していました。

 パルチアの滅亡後、ササン朝ペルシアが成立(226年~651年)、ゾロアスター教を国教と定め、この王朝で作られた美術工芸品が、シルクロードを通って日本にもたらされ、現在も正倉院に残されています。
ササン朝は、イスラム教を奉じるアラブ人によって滅ぼされ、以後、この地域はイスラム化すると同時に、ペルシア人ではない異民族によって支配されます。
ウマイヤ朝、アッバース朝、イル=ハン国、ティムール帝国が次々に勃興、滅亡を繰り返します。
他民族の支配下に入るものの、高い文化と伝統を持つペルシア人からは有能な人材が多く、各王朝で官僚として活躍し、宰相に成った人物も存在します。

 1501年、サファヴィー朝が成立、ササン朝以来のイラン民族王朝の復活です。
サファヴィー朝はシーア派を国教にして、西のオスマン帝国と対抗し、サファヴィー朝の支配のもとで、イラン人の民族意識が芽生えたと言われています。

 サファヴィー朝衰亡の後、18世紀末にイランを支配したのがトルコ系王朝ガージャール朝でした。
イラン人の多くはシーア派ですが、ガージャール朝の支配者はスンナ派です。
ガージャール朝は南下政策を推進するロシアに圧迫され、1828年、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をロシアに締結させられ、アルメニア地方をロシアに割譲、治外法権を認めました。
1841年には、イギリスとも不平等条約を結び、以後、北のロシア、南のイギリスに、徐々に従属していきました。

 植民地化に抵抗するイラン人の運動として、1848年から50年にかけて発生したバーブ教徒の乱が有名です。
バーブ教は、イスラム・シーア派から派生した新興宗教で、ヨーロッパ人に従属する中で、混乱を続ける社会を改革し理想社会を創る為に反乱を起こしました。
創始者バーブは、政府に逮捕され1850年に処刑されましたが、その後も、バーブ教は反政府運動を継続するものの、激しい弾圧でやがて勢力を失っていきました。

 不平等条約で庶民生活が困窮するなかで、民族主義や外国人排斥、政治改革を訴える新興宗教が勢力を拡大して、反乱をおこすというパターンは、バーブ教の反乱だけではありません。
中国の太平天国の乱や、朝鮮の東学党の乱(甲午農民戦争)と、同一のパターンで、西欧諸国から圧迫をうけたアジア民族の典型的な反応です。

 イラン政府(ガージャール朝)は、この後も、さまざまな利権をイギリスなどに与えていきます。

続く・・・
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