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2012/08/30

人類の軌跡その462:改革への道のり③

<オスマン・イラク・中央アジアその③>

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◎イラン②

 1891年に発生したタバコ=ボイコット運動は、政府がイギリスにタバコの製造販売の利権を与えた事に抗議しておこった国民的大衆運動です。
ウラマーと呼ばれる宗教指導者達が先頭に立って民衆を組織し、反政府・反英運動を展開し、利権をなくさせることに成功しました。
イランでは、宗教指導者が強い影響力を持っていて、今から約30数年前にも、宗教指導者ホメイニ師のもと、革命が成功して国王を追放しました。
1978年のイラン革命で、私には非常に印象的な事件で、現在のイランも大統領がいますが、宗教指導者の支持がないと権力を維持できないようです。

 1906年には、専制政治に反対してイラン立憲革命が成功し、議会が開設されますが、ロシアの圧迫によって、議会は閉鎖されました。
ロシアやイギリスにとっては、弱体化したガージャール朝による専制政治の方が、コントロールしやすく都合が良かったのです。
この後、1925年迄、ガージャール朝は存続しました。

◎アフガニスタン・中央アジア

 アフガニスタンには、パシュトゥーン人等多くの民族が住み、単一国家として成立したのは、18世紀の半ばです。1747年、パシュトゥーン人の軍人アフマド=シャー=ドゥッラニーが、イランから独立してドゥッラニー朝を建国したのが、現在のアフガニスタンの始まりです。

 このアフガニスタンの北、中央アジアでは、ロシアが勢力をのばし領土を拡大していました。
アフガニスタンの南東インドを支配したイギリスは、ロシア勢力の南下を阻止する為、アフガニスタンを勢力範囲に収める事を画策し、19世紀以降、インドからアフガニスタンに侵入し、イギリス・アフガニスタン戦争をおこしました。
 
 ところが、現在でも大国の支配をなかなか受けつけない国家アフガニスタンです。
イギリス軍は、地方に強い影響力をもつ部族勢力のゲリラ活動に悩まされ、アフガニスタンを完全に支配する事はできず、1879年に、どうにかアフガニスタンの外交権を獲得し、間接的にロシアの南下を抑える事に成功しました。

 アフガニスタンの北からアラル海にかけての中央アジアの地域には、トルコ系のウズベク人が、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を建てていました。
これらの国家は、1860年代から70年代にかけて、ロシアの保護国になるか滅ぼされて淘汰されます。

◎アフガーニー

 北アフリカから西アジア、中央アジアのイスラム諸地域は、西欧諸国の植民地若しくは、半植民地の地位に落ち込んでいくのですが、このような状況に危機感を覚え、反西欧の主張を全面に押し出し、イスラムの連帯と改革を訴えた人物がアフガーニー(1838~97)です。
反イギリス、反帝国主義の運動をする為に、イスラム世界の各地を旅して、イスラムの連帯を訴えました。
アフガニスタンから、イラン各地、イスタンブール、カイロ、更に、ロンドン、パリ、モスクワ等世界各地を訪れ、出版物を出し、政治結社を作り、西欧に抵抗する為のネットワークづくりを行いました。
エジプトのウラービー=パシャの革命運動や、イランのタバコ=ボイコットに大きな影響を与えたと云われています。

 以前は、余り書物に現れる人物では在りませんでしたが、現代イスラム社会に焦点があたり、研究が進む中で、最も早く西欧と対抗してパン=イスラム主義を唱えた人物として注目されています。

改革への道のり・終わり・・・

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コメント

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おはようございます。
中央アジアのイスラム教国って知ってるようで知らないことが多かったです。とっても勉強になりました。
日本社会も改革が必要な時期に来ていますが、いつの日か秋葉さんのブログに取り上げられることを願ってやみません。^^