人類の軌跡その464:アジアに翻るユニオンジャック②
<イギリスのインド支配②>

イギリス東インド会社傭兵(シパーヒー・セポイ)
◎イギリス東インド会社によるインド征服②
プラッシーの戦いは、イギリス側3000、フランス側6800なので、フランス側が圧倒的に有利です。ところが、この戦いでイギリスが勝利します。
その立役者として活躍したのが、イギリス東インド会社のクライブで、インドに於けるイギリスの活動主体はイギリス政府ではなく、イギリス東インド会社で在り、イギリス政府が指揮しているのでは在りません。
クライブは、ベンガル太守軍の将軍に買収工作を行い、太守を裏切りイギリス側に寝返ったら、戦後、ベンガル太守の地位につけると約束をしたのです。
将軍は買収に応じ、戦いが始まると、この将軍、ベンガル太守の命令を無視し、軍を動かさず、結局この裏切りの結果、イギリスが勝利することになったのです。
この買収工作で、クライブは、イギリス本国で一躍英雄となりました。
この戦闘が、結果としてインドの運命を変えることになりました。
イギリス東インド会社は、この後フランス勢力をインドから一掃しただけではなく、新しいベンガル太守を傀儡(かいらい)としました。
1765年には、イギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得し、貿易会社が、他国の一地方の税金を徴収するのです。
それは、貿易会社ではなく、統治機関で在り事実上、ベンガル地方を支配するようになったということです。
因みに、ベンガル地方というのは、現在のバングラデシュ一帯の地方です。
これ以後、インドはイギリス産業の原料供給地兼製品市場とされていきました。
イギリス東インド会社はインドから木綿を買い付け、イギリス本国に輸出します。
折からの産業革命で、発展しつつある綿織物工業の原材料で、イギリスの機械制大工場で生産された綿織物が、今度はインドに輸出されます。
インドは世界有数の綿織物生産国でしたが、手工業が災いし、イギリスから輸出される大量生産で安価な綿織物に対抗できず、インドの綿織物工業は大打撃を受けました。
「世界に冠たる織物の町」と云われたダッカの人口は、わずかのうちに15万から3万に激減しました。
インド総督ベンティングは、1834年にイギリス本国に送った年次報告に「世界経済史上、このような惨状に比すべきものはほとんど見いだせない。職工たちの骨がインドの平原を白色に化している」と書いたほどです。
お金とモノの流れを単純に考えてみると、イギリス東インド会社は徴税権を持ち、インド人から税金を徴収し、その税金で、インド農民から原綿を買い付けると考えれば、ただで原料を手に入れている、もしくは奪っているのと同じことです。
それを加工した製品をインド人に売るという事は、奪った原料で作った製品を、奪った相手に売りつけているわけで、富は一方的にイギリスに流れることになります。
イギリス側にとって、これほど儲かる商売はないし、インド側からみれば、最大限搾取されているわけです。
この後、イギリスは、インド各地の地方政権を次々に支配下に置いていきました。
インド征服のための大きな戦争としては、南インドのマイソール王国とのマイソール戦争(1767年~99年)、マラータ同盟とのマラータ戦争(1775年~1818年)、シク教国とのシク戦争(1845年~49年)があります。
シク戦争の勝利で、イギリスによるインド征服は事実上完了しました。
続く・・・

イギリス東インド会社傭兵(シパーヒー・セポイ)
◎イギリス東インド会社によるインド征服②
プラッシーの戦いは、イギリス側3000、フランス側6800なので、フランス側が圧倒的に有利です。ところが、この戦いでイギリスが勝利します。
その立役者として活躍したのが、イギリス東インド会社のクライブで、インドに於けるイギリスの活動主体はイギリス政府ではなく、イギリス東インド会社で在り、イギリス政府が指揮しているのでは在りません。
クライブは、ベンガル太守軍の将軍に買収工作を行い、太守を裏切りイギリス側に寝返ったら、戦後、ベンガル太守の地位につけると約束をしたのです。
将軍は買収に応じ、戦いが始まると、この将軍、ベンガル太守の命令を無視し、軍を動かさず、結局この裏切りの結果、イギリスが勝利することになったのです。
この買収工作で、クライブは、イギリス本国で一躍英雄となりました。
この戦闘が、結果としてインドの運命を変えることになりました。
イギリス東インド会社は、この後フランス勢力をインドから一掃しただけではなく、新しいベンガル太守を傀儡(かいらい)としました。
1765年には、イギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得し、貿易会社が、他国の一地方の税金を徴収するのです。
それは、貿易会社ではなく、統治機関で在り事実上、ベンガル地方を支配するようになったということです。
因みに、ベンガル地方というのは、現在のバングラデシュ一帯の地方です。
これ以後、インドはイギリス産業の原料供給地兼製品市場とされていきました。
イギリス東インド会社はインドから木綿を買い付け、イギリス本国に輸出します。
折からの産業革命で、発展しつつある綿織物工業の原材料で、イギリスの機械制大工場で生産された綿織物が、今度はインドに輸出されます。
インドは世界有数の綿織物生産国でしたが、手工業が災いし、イギリスから輸出される大量生産で安価な綿織物に対抗できず、インドの綿織物工業は大打撃を受けました。
「世界に冠たる織物の町」と云われたダッカの人口は、わずかのうちに15万から3万に激減しました。
インド総督ベンティングは、1834年にイギリス本国に送った年次報告に「世界経済史上、このような惨状に比すべきものはほとんど見いだせない。職工たちの骨がインドの平原を白色に化している」と書いたほどです。
お金とモノの流れを単純に考えてみると、イギリス東インド会社は徴税権を持ち、インド人から税金を徴収し、その税金で、インド農民から原綿を買い付けると考えれば、ただで原料を手に入れている、もしくは奪っているのと同じことです。
それを加工した製品をインド人に売るという事は、奪った原料で作った製品を、奪った相手に売りつけているわけで、富は一方的にイギリスに流れることになります。
イギリス側にとって、これほど儲かる商売はないし、インド側からみれば、最大限搾取されているわけです。
この後、イギリスは、インド各地の地方政権を次々に支配下に置いていきました。
インド征服のための大きな戦争としては、南インドのマイソール王国とのマイソール戦争(1767年~99年)、マラータ同盟とのマラータ戦争(1775年~1818年)、シク教国とのシク戦争(1845年~49年)があります。
シク戦争の勝利で、イギリスによるインド征服は事実上完了しました。
続く・・・
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