2012/09/07

人類の軌跡その467:アジアに翻るユニオンジャック⑤

<イギリスのインド支配⑤>

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処刑

◎インド大反乱その③

 シパーヒーへの家族からの手紙が急増したのを不審に思ったイギリス人上官が、手紙の中身をチェックすると、「新式銃の火薬包みの使用を拒否せよ、拒否しなければカーストから追放する」と書かれていたと云います。
又、ある駐屯地で、シパーヒーが民間の作業員に水を分け与えようとしたら、その作業員が「あなたはまもなく自分のカーストを失うから」と言って、水を拒否したと伝えられています。
ヒンドゥー教のタブーを犯して、所属カーストから追放されると、アウトカースト、不可触民にされ、「そんな最低の身分の者から、水をもらえない」と云うことです。
新式銃の導入に伴う噂が、一般にも広がり、関心が持たれていた事が伺われます。

 他に、反乱の直前、インドの村から村へチャパティーがリレーされるのを、イギリス人が目撃して報告しています。
ある村から別の村へチャパティーが届けられると、その村では、新たに数枚のチャパティーを焼いて、さらに別の村に届けていったと云います。
チャパティーは小麦粉を焼いたパン状も食べ物で、このリレーに如何なる意味があるのか、目撃したイギリス人には理解できませんでしたが、異様なものを感じて、記録したのでしょう。
同様に、東インド会社軍の部隊から部隊へと蓮の花がリレーされていて、これも何かの合図だった可能性があります。

 不穏な空気が広がるなかで、1857年5月、シパーヒーが反乱を起こしました。
発端は、メーラトに在った部隊での事件でした。
この部隊で、新式銃を使った演習が行われたのですが、イギリス人上官の命令を拒否して、90名の兵士中85名が弾薬筒に触ろうとせず演習が不能になりました。
軍隊にとって命令拒否は重い罪で、軍法会議の結果、問題の兵士達は、見せしめの為に、他の兵士たちが集合させられている前で、軍服をはぎ取られ足かせをはめられて牢に入れられました。
残りのシパーヒー達は、これに反発し、翌日牢に入れられた仲間を救うために蜂起し、反乱はメーラト以外の各地の駐屯地に広がったのです。
 
 各地のシパーヒーが蜂起すると、東インド会社軍と無関係の民衆も蜂起し、インド全体が反乱状態となりました。
これをインド大反乱と呼び、以前は、シパーヒーの反乱、もしくはセポイの乱とも呼ばれていましたが、反乱に参加したのはシパーヒーだけではないので、現在はインド大反乱と呼んでいます。
 
 反乱にはイギリスに滅ぼされた地方政権、インドでは藩王国と呼びますが、この藩王国の旧支配者層など、さまざまな勢力が加わり、全インドの三分の二が反乱に参加したと云います。
ただし、各地の反乱軍は、互いに連携するわけでもなく、全体の指導部も存在せず、デリーを占領した反乱軍は、引退していたムガル帝国皇帝を、反乱軍のトップとして擁立しました。

 彼は、イギリス東インド会社から年金を受け取り、名目だけのムガル皇帝として存在していたので、彼はただの飾り物で、何の指導力もありませんでした。

続く・・・

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