人類の軌跡その468:アジアに翻るユニオンジャック⑥
<イギリスのインド支配⑥>

初代インド皇帝:ヴィクトリア(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)
◎インド大反乱その④
ムガル帝国皇帝は、イギリス東インド会社から年金を受け取り、名目だけのムガル皇帝として存在していたので、彼はただの飾り物で、何の指導力もありませんでした。
反乱勢力は、統一した作戦や、反乱成功後の共通目標もなかったのですが、不意をつかれたイギリス側は、一時、インドから撤退しました。
やがて態勢を整えて反撃を開始、反乱に参加していなかったシク教徒によるシク兵、イラン兵、ネパール人のグルカ兵を動員し、9月にはデリーを反乱軍から奪還、以後は各地の反乱勢力を各個撃破し、1859年までには、完全に反乱を鎮圧しました。
イギリスは、反乱を起こした者達に徹底的な報復を行い、反乱側についた町や村の住民を虐殺し、反乱軍の捕虜を大砲の砲身にくくりつけて吹き飛ばし、牛や豚の血を無理矢理飲ませてから殺すなど、見せしめ的な処刑をおこなっています。
結局、反乱は失敗したわけですが、この反乱で活躍したインド人の武将達は、現在も民族の英雄として慕われています。
例えば、インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれているラクシュミー=バーイー、彼女はジャーンシー藩王国という国の王妃でしたが、イギリスに国を奪われ、反乱が起きると女性ながらも兵士を率いてイギリス軍と戦いました。養子にした幼い子供を背負って、馬に乗っている彼女の肖像画があります。最後には戦死するのですが、ゲリラ戦でねばり強く戦いつづけた女性でした。
インドの大部分が参加した反乱で在り、しかも、東インド会社軍の傭兵部隊シパーヒーまでが反乱側で有るにも関わらず、なぜ、反乱は敗北したのでしょうか?
最大の理由は、反乱側内部の不統一で、最初から反乱軍は烏合の衆で指導部もありませんでしたが、加えて、地域間の対立、カースト間の対立によって、インド人同士の結束が出来ませんでした。
イギリス側は、この様なインド人同士の対立を巧妙に利用し、同じインド人でありながら、シク教徒がイギリス側に従っている事がそのよい例です。
◎その後のインド
反乱をほぼ鎮圧した1858年、イギリス本国政府は、東インド会社を解散させ、インド全土を直接支配する事に成り、名目だけ存続したムガル帝国も完全に滅亡させられます。
1877年には、インドにインド帝国が成立します。
イギリス政府がインドに新しい国を建国し、その国の名前がインド帝国で在り、インド帝国の皇帝に即位したのがイギリス国王のヴィクトリア女王でした。
従って、この時点から、ヴィクトリア女王はイギリス国王兼インド皇帝と成ります。
但し、ヴィクトリア女王はインドに赴く事は無く、その所在地はイギリス本国です。
イギリスのエリート貴族達が、インド帝国の高級行政官としてインドに赴任し、インド人の役人を指揮しながらインドを支配するインド帝国は、イギリスの完全な植民地でした。
イギリスのインド支配は巧妙で、インドが団結してイギリスに抵抗しないよう分割統治をおこないました。
インド帝国は、イギリスの直轄領と、550以上の藩王国から構成されていて、藩王国は外交権は無く、イギリスの監視付きではありますが、マハラジャと呼ばれる藩王の自治が認められていました。
マハラジャからすれば、無理してイギリスに抵抗せず、このままマハラジャの地位を認めてもらった方が安泰です。
旧勢力を温存し、旧支配者層の抵抗を薄めながら支配した、このインド帝国は第二次大戦後の1947年迄存続しました。
イギリスのインド支配・終わり・・・

初代インド皇帝:ヴィクトリア(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)
◎インド大反乱その④
ムガル帝国皇帝は、イギリス東インド会社から年金を受け取り、名目だけのムガル皇帝として存在していたので、彼はただの飾り物で、何の指導力もありませんでした。
反乱勢力は、統一した作戦や、反乱成功後の共通目標もなかったのですが、不意をつかれたイギリス側は、一時、インドから撤退しました。
やがて態勢を整えて反撃を開始、反乱に参加していなかったシク教徒によるシク兵、イラン兵、ネパール人のグルカ兵を動員し、9月にはデリーを反乱軍から奪還、以後は各地の反乱勢力を各個撃破し、1859年までには、完全に反乱を鎮圧しました。
イギリスは、反乱を起こした者達に徹底的な報復を行い、反乱側についた町や村の住民を虐殺し、反乱軍の捕虜を大砲の砲身にくくりつけて吹き飛ばし、牛や豚の血を無理矢理飲ませてから殺すなど、見せしめ的な処刑をおこなっています。
結局、反乱は失敗したわけですが、この反乱で活躍したインド人の武将達は、現在も民族の英雄として慕われています。
例えば、インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれているラクシュミー=バーイー、彼女はジャーンシー藩王国という国の王妃でしたが、イギリスに国を奪われ、反乱が起きると女性ながらも兵士を率いてイギリス軍と戦いました。養子にした幼い子供を背負って、馬に乗っている彼女の肖像画があります。最後には戦死するのですが、ゲリラ戦でねばり強く戦いつづけた女性でした。
インドの大部分が参加した反乱で在り、しかも、東インド会社軍の傭兵部隊シパーヒーまでが反乱側で有るにも関わらず、なぜ、反乱は敗北したのでしょうか?
最大の理由は、反乱側内部の不統一で、最初から反乱軍は烏合の衆で指導部もありませんでしたが、加えて、地域間の対立、カースト間の対立によって、インド人同士の結束が出来ませんでした。
イギリス側は、この様なインド人同士の対立を巧妙に利用し、同じインド人でありながら、シク教徒がイギリス側に従っている事がそのよい例です。
◎その後のインド
反乱をほぼ鎮圧した1858年、イギリス本国政府は、東インド会社を解散させ、インド全土を直接支配する事に成り、名目だけ存続したムガル帝国も完全に滅亡させられます。
1877年には、インドにインド帝国が成立します。
イギリス政府がインドに新しい国を建国し、その国の名前がインド帝国で在り、インド帝国の皇帝に即位したのがイギリス国王のヴィクトリア女王でした。
従って、この時点から、ヴィクトリア女王はイギリス国王兼インド皇帝と成ります。
但し、ヴィクトリア女王はインドに赴く事は無く、その所在地はイギリス本国です。
イギリスのエリート貴族達が、インド帝国の高級行政官としてインドに赴任し、インド人の役人を指揮しながらインドを支配するインド帝国は、イギリスの完全な植民地でした。
イギリスのインド支配は巧妙で、インドが団結してイギリスに抵抗しないよう分割統治をおこないました。
インド帝国は、イギリスの直轄領と、550以上の藩王国から構成されていて、藩王国は外交権は無く、イギリスの監視付きではありますが、マハラジャと呼ばれる藩王の自治が認められていました。
マハラジャからすれば、無理してイギリスに抵抗せず、このままマハラジャの地位を認めてもらった方が安泰です。
旧勢力を温存し、旧支配者層の抵抗を薄めながら支配した、このインド帝国は第二次大戦後の1947年迄存続しました。
イギリスのインド支配・終わり・・・
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