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2012/09/11

人類の軌跡その470:東南アジアの国々②

<東南アジアの動向②>

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ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)

◎ヴェトナム②

 10世紀になると中国から独立し、11世紀にはヴェトナム北部を統一する王朝が成立します。
最初に成立したのが李朝(1010年~1225年)、王朝名も人名も、中国文化の影響を受けて漢字で表記され、李朝は治水によってホン川デルタを開発した。

 次が陳朝(1225年~1400年)、この時代に、漢字を基本に、ヴェトナム独自の文字であるチュノムが作られました。
また、北方からの元の侵入を撃退し、南ではチャンパーを圧迫し、領土を南に拡大しましたが、これには、南シナ海貿易に参入しようという意図があったようです。

 陳朝が衰えた後、1407年から1427年にかけて、ヴェトナムは再び中国明朝の支配下に入りますが、1428年、黎(れい)朝(1428年~1789年)が成立し、独立を回復しました。
黎朝は、中国風の国家建設を行い、儒教を柱に律令を整備し、科挙を実施しました。
1471年には南にあったチャンパーを滅ぼしています。

 しかし、16世紀には内乱で衰え、黎朝の王は名目だけの存在となり、北部は鄭氏、南部は阮氏が実権を握ります。
阮氏政権は領土を更に南に拡大し、カンボジア領だったメコンデルタ地帯迄を支配下に入れました。
この頃には、オランダ、ポルトガル、フランス等の商人や宣教師がヴェトナムに渡来しますが、当時の日本は戦国時代で、南蛮貿易が活発に行われていた時です。

 やがて鄭氏、阮氏を倒し、黎朝を滅ぼし、ヴェトナムを再統一し、ほぼ現在と同じ領域を支配したのが、西山(タイソン)朝(1778年~1802年)です。
西山(タイソン)党と呼ばれる山岳地帯から起こった反乱軍が建てた王朝で、反乱軍のリーダーが阮氏三兄弟ですが、先の阮氏政権とは全く無関係な人物です。

 そして、1802年、この西山朝を倒して成立したヴェトナム最後の王朝が阮朝。
この阮朝を建国した人物は、阮福映で、西山朝に倒された阮氏政権の末裔にあたる人物です。
阮福映は、阮氏政権崩壊後、タイ王国に亡命し、タイ国王やフランス人宣教師ピニョーの援助を受けて、ヴェトナムで政権を奪還したのでした。
ピニョーは亡命中の阮福映と出会い、彼を援助する事で、東南アジアにキリスト教王国を建設しようと考えました。
ピニョーは、当時4歳だった阮福映の息子を連れてフランスに帰国、国王ルイ16世に謁見し、ヴェトナムからの領土割譲と引き替えに軍事援助の約束を取り付けました。
フランス革命の僅か2年前、1787年のことです。

 この後、ピニョーはヴェトナムに戻るのですが、フランスのインド総督と対立し、実勢にはフランス軍の援助は得られず、ピニョーは独力で義勇軍を編成し、阮福映に協力しました。(但し、ピニョーは、阮朝成立直前に死亡しています。)

 ところが阮朝は、建国後すぐに、中国清朝を宗主国として、西洋諸国に対しては事実上の鎖国体制を採り、中国を中心とする伝統的な東アジアの国際秩序に納まってしまのです。
フランスの援助を得ていながら、何故この様な事が可能だったのでしょう?
此処で注意すべきは、ピニョーの援助は、フランス政府の援助では無く、ピニョー自身も建国時にはこの世に存在せず、阮福映としては、フランスに義理を感じる必要は在りませんでした。

 因みに阮朝に対して、清朝は越南国という名前を与えます。
この越南の意味は、中国の南にある国を示し、ヴェトナムの国号はここから生まれました。
それ以前は、同様い中国王朝が命名した、大越と呼ばれていました。

続く・・・

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