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2012/09/13

人類の軌跡その472:東南アジアの国々④

<東南アジアの動向④>

Thomson,_King_Mongkut_of_Siam_(crop)
チャクリー王朝の第4代国王ラーマ4世(1804年10月18日 - 1868年10月1日)

◎カンボジア

 カンボジアの主要民族はクメール人で、彼らの国家として最初に登場するのが扶南国(ふなんこく、1世紀~7世紀)、メコン川の下流に位置していました。
この国にはオケオ港と呼ばれる港湾都市が在り、その遺跡からはローマの金貨が出土します。
インド方面と活発な商業活動をしていた事が読み取れます。

 6世紀になるとメコン川中流域で、扶南国の属国だった真臘(しんろう)が独立し領土を拡大しまが、民族は同じクメール人。
中国の歴史書に出てくる国名で表記しているので中国的な文化を連想しますが、その文化はインド系でヒンドゥー教を取り入れ、7世紀には扶南国を滅ぼし領土を拡大するものの、8世紀には分裂します。

 9世紀に再統一され、クメール王国若しくはアンコール朝と呼ばれています。
有名な仏教寺院遺跡アンコール・ワットや首都アンコール・トムは、この時に建設され、大規模灌漑工事による農業開発もおこない12世紀前半に最盛期を迎えました。

 しかし、13世紀前半に西北のタイ人が独立し、スコータイ朝を建国すると、徐々に衰え、14世紀になるとタイのアユタヤ朝に数回に渡って首都アンコールを占領されます。
1432年にアユタヤ朝に侵略された時、終にアンコールを放棄し首都をプノンペンに移しました。
それ以後は、衰退の一途を辿り、タイやヴェトナムに圧迫され、両国に朝貢して二つの国の属国の様な存在と成ります。

 やがて、ヴェトナムがフランスの勢力下にはいると、カンボジアにはタイの属国になるかフランスの保護国になるかという選択肢しかなくなり、1863年にはフランスの保護国に成ってしまいました。

◎タイ

 タイは、中国雲南地方から南下してきたタイ人が国家を形成します。
最初の国が、スコータイ朝(13世紀~15世紀)、真臘に従属していたタイ人達が自立した国です。

 スコータイ朝が衰えた後に成立した王朝がアユタヤ朝(14世紀~18世紀)、チャオプラヤ川中流に建国され、国王が貿易を独占管理して、西欧諸国や中国とも積極的に外交・通商をおこないました。外国人達は、アユタヤの王を商人王と呼んでいて、この国も港市国家と考える研究者もいます。
アユタヤ朝はミャンマーのコウバウン朝に滅ぼされました。

 次に成立したのがバンコク朝(別名ラタナコーシン朝、チャクリ朝)(1782年~現在)、現在までつづく王朝です。
首都がバンコクなので、一般的にはバンコク朝と呼びます。
バンコクは、18世紀末で人口約40万、その半数は中国人で、タイ人は三割に過ぎなかったという記録があります。
この時期の中国は、人口が爆発的に増加していて、溢れる様に中国人が華僑(華人)として、東南アジアに移住しています。
彼ら華僑の多くは王の保護のもとで貿易に従事していたと思われます。

 バンコク朝の貿易は国王に独占されており、西欧の商人の貿易は制限していましたが、1855年、イギリスとの間にボウリング条約を結んで開国をしました。
これは、治外法権を認める不平等条約で、このときの国王がラーマ4世(モンクット王)。
タイは、本来米の輸出国でしたが、この条約を結んだあと、イギリスの要求に応えて米の輸出を増やすため、未開拓だったチャオプラヤ川のデルタ地帯の開発がはじまりました。
開国後の50年で50万ヘクタール近くが水田となり、輸出量は1857年の5万9千トンから、1907年には89万トンに激増、更にこの後も増え続けました。
西欧列強が中心となる世界経済の中で、米の生産輸出国として位置づけられたのです。
タイから見れば、植民地にされないよう、世界情勢の変化に必死に対応した姿でした。

 ラーマ4世は、自分自身が英語を学ぶなど、積極的に西欧の諸制度を研究し、王子の教育にはイギリス人女性を家庭教師に任命します。
この家庭教師の話が、『王様とわたし』という有名なミュージカルのモデルに成りました。

 次の王ラーマ5世(チュラロンコン王)は、日本の明治時代とほとんど重なり、タイ政府の近代化を進めて、タイの独立をまもりました。
中央集権化もすすみ、地方長官を派遣して辺境地域の領土を確定するのもこの時代です。

続く・・・
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