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2012/09/17

人類の軌跡その473:アジアに翻るユニオンジャック⑦

<アヘン戦争その①>

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広東十三行外貿易特区

◎18世紀後半の清朝

 康煕帝、雍正帝、乾隆帝、清の最盛期を具現した皇帝ですが、18世紀後半、乾隆帝の時代に清の領土は最大となり、現在の中国よりも広い地域を支配しました。
経済は繁栄し、人口は爆発的に増加、18世紀後半に中国の人口は2億を突破し、その後も増加をつづけ、辺境地域、山岳部の開拓や、東南アジアへの移住が進むのもこの時期です。

 1795年、乾隆帝は在位60年で退位しますが、これは、尊敬する祖父康煕帝の在位61年を越える事を憚った為で、皇位を継承したのは嘉慶帝(かけいてい)、乾隆帝の息子です。
嘉慶帝は決して無能ではありませんでしたが、乾隆帝の引退と同時に、各種の問題が表面化します。例えば、乾隆帝の長い在位の間に、官僚の腐敗が進行していた様子が在り、嘉慶帝は、父乾隆帝が崩御すると、乾隆帝の傍に仕え、尚且つ不正蓄財していた官僚を処罰しています。

 又、1796年には嘉慶白蓮教徒の乱という、大規模な反乱が起こっています。
白蓮教は、暗黒の現世に救世主が現れて光明の世界を実現すると云う教えを持ち、仏教やマニ教の影響を受けて生まれた中国独自の民間信仰です。
白蓮教は種々の系統が存在し、救世主は、弥勒仏や地母神として説かれている部分も在ります。

 明を建国した朱元璋が参加していた紅巾の乱も、本来は白蓮教の反乱が母体でした。
朱元璋が国号を「明」としたのは、光明の世界を実現すると云う白蓮教の教えの影響を受けていたからだ、との説もあります。
清の時代にも、民衆の間で白蓮教の信仰が継承されていたのですが、この時の反乱は、山間辺境地域に移住した民衆が起こしたもので、白蓮教に対する役人の弾圧と重税が直接の原因でした。
この反乱は、1804年迄続き、清朝の支配体制が動揺し始めている、裏付けでも在りました。

◎清朝の貿易制限策

 清朝は18世紀後半から貿易制限策をとり、欧米諸国との貿易は広東省の広州一港に限定していました。
更に、イギリス商人が取引を行う相手は、清朝政府の許可を得た特権商人に限定されていました。この中国側の特権商人を公行(コホン)と言い、十三の商人に限られていたので広東十三行とも云います。
イギリス商人は、好む相手と自由に取引が出来ない状態が続いていました。
又、イギリス人等の商人が滞在する、外国人居住区を広州の一区画に限定していたのです。

 同様な事例は、江戸幕府が海外貿易を長崎に限定し、オランダ人商人を出島に隔離したのと同じですが、基本的に西欧人の文化に対する違和感、警戒感が存在し、可能な限り接触したくないと云う感覚が存在した様子です。

 清朝と積極的に貿易を行った国はイギリスでした。
イギリスは、中国から輸入した品目が数多く存在し、その代表が、茶、絹、陶磁器です。

続く・・・
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