人類の軌跡その474:アジアに翻るユニオンジャック⑧
<アヘン戦争その②>

カティサーク(Cutty Sark)
◎清朝の貿易制限策②
特に茶は重要で、イギリスの国民飲料紅茶は、中国から輸入するしか当時有りません。
インドで茶の栽培が盛んに成るのは、19世紀の後半にからなので、イギリスは中国で茶を買い付け、イギリスに運びました。
有名な大型高速帆船カティーサーク号等、一般にティークリッパーと呼ばれる艦船に茶葉を満載して、新茶を一番にイギリスに運ぶ為のレースが行われる事も在りました。
当時国際貿易の決済は銀で行われていましたから、イギリス商人は中国から買い付けた商品の支払いを銀で行います。
イギリス側は、中国に売る商品が無い、訳では無いのですが、中国側が、買ってくれないので、イギリスは銀を支払うばかりで、清とイギリスの貿易は、一方的にイギリスの貿易赤字が続きます。
若し、中国側がイギリスからも、なにがしかの商品を買ってくれれば、一方的にイギリスが損をする事は有りません。
イギリスには中国で売りたいものがありました。
それは、綿工業製品です。
産業革命が進展し、綿織物工業はその中でも特に発展し、イギリスの産業資本家は、その製品を世界中で売りたい、人口の多い中国は、絶好の市場として期待されました。
そこで、イギリスは中国に綿工業製品を買ってもらうための交渉を行います。
乾隆帝時代の末期の1793年、イギリスはマカートニー使節団を清朝に派遣しました。
マカートニーは、乾隆帝に面会して、綿工業製品の販売拡大の為、貿易制限の廃止を求めました。
この時の乾隆帝の答えはこうでした。
「我が清朝は「地大物博」、つまり、領土は広大で、如何なる物も在るから、お前の国イギリスから買いたいものなど何もない。現在、広州でイギリスと貿易を行なっているのは、お前達イギリス人が中国のお茶や生糸を欲しいと欲しいと望むから、かわいそうに思って恩恵として貿易をしてやっているのである。それなのに、調子に乗って、綿製品を買ってくれとはどういう事か。文句があるのなら、現在おこなっている貿易を停止する。それでも、中国は全然困らないのだ。」
と、この様な意味の会話を交わし、マカートニーは、返す言葉もなく、引き返すしかありませんでした。
この段階で、清朝とイギリスとでは、清朝側が上手にたっています。
マカートニー使節団の交渉が失敗した後、1816年、イギリスは再び貿易制限撤廃を求めてアマースト使節団を派遣しました。
この時の清の皇帝は嘉慶帝、アマーストは貿易交渉をするどころか、嘉慶帝に面会すら出来ませんでした。
清朝側は、皇帝に面会するに当たってアマーストに「三跪九叩頭礼(さんききゅうこうとうれい)」を要求しました。
これは、臣下が皇帝に謁見する時にする礼で、両膝を三回床につく、れが、三跪。
そして、一回ひざまずく度に、三回頭を床にこすりつける、これが叩頭。
三回ひざまずくので、叩頭の回数は、合計九回、なので、この礼を「三跪九叩頭礼」と云います。
伝統的な中国の世界観では、中国と対等な国は世界に存在しません。
全て中国王朝より格下ですから、どの国の使者であろうと、清朝皇帝の御前では、臣下の礼をとらなければなりません。
その建前に立って、清の役人は、嘉慶帝に謁見するのであれば、「三跪九叩頭礼」を行いなさいと言う。
アマーストは、自分はイギリス国王の臣下ではあるが、清朝皇帝の臣下ではない。
イギリス国王の使者である自分が、清朝皇帝に跪く事は、イギリス国王が、清朝皇帝に跪く事であって、絶対に承服できない、と拒否しました。
マカートニーの時は、同様に「三跪九叩頭礼」を要求されたのですが、マカートニーが拒否すると、片膝を床につくだけの略式の礼で許されました。
乾隆帝は鷹揚なところを見せたわけですが、今回はどうしても駄目で、両者折り合わず、マカートニーは最終的に何の交渉も出来ず、イギリスとしては、貿易交渉は失敗に終わりました。
続く・・・

カティサーク(Cutty Sark)
◎清朝の貿易制限策②
特に茶は重要で、イギリスの国民飲料紅茶は、中国から輸入するしか当時有りません。
インドで茶の栽培が盛んに成るのは、19世紀の後半にからなので、イギリスは中国で茶を買い付け、イギリスに運びました。
有名な大型高速帆船カティーサーク号等、一般にティークリッパーと呼ばれる艦船に茶葉を満載して、新茶を一番にイギリスに運ぶ為のレースが行われる事も在りました。
当時国際貿易の決済は銀で行われていましたから、イギリス商人は中国から買い付けた商品の支払いを銀で行います。
イギリス側は、中国に売る商品が無い、訳では無いのですが、中国側が、買ってくれないので、イギリスは銀を支払うばかりで、清とイギリスの貿易は、一方的にイギリスの貿易赤字が続きます。
若し、中国側がイギリスからも、なにがしかの商品を買ってくれれば、一方的にイギリスが損をする事は有りません。
イギリスには中国で売りたいものがありました。
それは、綿工業製品です。
産業革命が進展し、綿織物工業はその中でも特に発展し、イギリスの産業資本家は、その製品を世界中で売りたい、人口の多い中国は、絶好の市場として期待されました。
そこで、イギリスは中国に綿工業製品を買ってもらうための交渉を行います。
乾隆帝時代の末期の1793年、イギリスはマカートニー使節団を清朝に派遣しました。
マカートニーは、乾隆帝に面会して、綿工業製品の販売拡大の為、貿易制限の廃止を求めました。
この時の乾隆帝の答えはこうでした。
「我が清朝は「地大物博」、つまり、領土は広大で、如何なる物も在るから、お前の国イギリスから買いたいものなど何もない。現在、広州でイギリスと貿易を行なっているのは、お前達イギリス人が中国のお茶や生糸を欲しいと欲しいと望むから、かわいそうに思って恩恵として貿易をしてやっているのである。それなのに、調子に乗って、綿製品を買ってくれとはどういう事か。文句があるのなら、現在おこなっている貿易を停止する。それでも、中国は全然困らないのだ。」
と、この様な意味の会話を交わし、マカートニーは、返す言葉もなく、引き返すしかありませんでした。
この段階で、清朝とイギリスとでは、清朝側が上手にたっています。
マカートニー使節団の交渉が失敗した後、1816年、イギリスは再び貿易制限撤廃を求めてアマースト使節団を派遣しました。
この時の清の皇帝は嘉慶帝、アマーストは貿易交渉をするどころか、嘉慶帝に面会すら出来ませんでした。
清朝側は、皇帝に面会するに当たってアマーストに「三跪九叩頭礼(さんききゅうこうとうれい)」を要求しました。
これは、臣下が皇帝に謁見する時にする礼で、両膝を三回床につく、れが、三跪。
そして、一回ひざまずく度に、三回頭を床にこすりつける、これが叩頭。
三回ひざまずくので、叩頭の回数は、合計九回、なので、この礼を「三跪九叩頭礼」と云います。
伝統的な中国の世界観では、中国と対等な国は世界に存在しません。
全て中国王朝より格下ですから、どの国の使者であろうと、清朝皇帝の御前では、臣下の礼をとらなければなりません。
その建前に立って、清の役人は、嘉慶帝に謁見するのであれば、「三跪九叩頭礼」を行いなさいと言う。
アマーストは、自分はイギリス国王の臣下ではあるが、清朝皇帝の臣下ではない。
イギリス国王の使者である自分が、清朝皇帝に跪く事は、イギリス国王が、清朝皇帝に跪く事であって、絶対に承服できない、と拒否しました。
マカートニーの時は、同様に「三跪九叩頭礼」を要求されたのですが、マカートニーが拒否すると、片膝を床につくだけの略式の礼で許されました。
乾隆帝は鷹揚なところを見せたわけですが、今回はどうしても駄目で、両者折り合わず、マカートニーは最終的に何の交渉も出来ず、イギリスとしては、貿易交渉は失敗に終わりました。
続く・・・
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