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2012/09/21

人類の軌跡その477:アジアに翻るユニオンジャック⑩

<アヘン戦争その⑤>

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林 則徐(Lín Zéxú、1785年8月30日 - 1850年11月22日)Wikipediaより

◎厳禁論と弛禁論

 清朝政府はアヘンに対する禁令を繰り発布していますが、余りにも効果は見られませんでした。
密貿易が行われて広州では、清朝側の官僚や軍人は、イギリス商人に買収されており、実質的に禁令は形式だけになっていたのです。
清朝政府も、本気でアヘンを取り締まる姿勢は見られず、首都北京から見ると、広州は実に遠い辺境地域です。
だからこそ、広州でのみ外国との貿易を行なっているのであり、辺境地域で少々麻薬密貿易が存在しても、中央政府が必至になる問題ではないと考えていたのです。

 ところが、1830年代に成り、アヘン貿易による銀の流出、財政の悪化、中毒患者の増大と、さまざまな問題が表面化し、軍隊内部や皇室関係者にもアヘン中毒患者が現れます。
こうなると、流石に清朝政府内部で、アヘン問題に対しての議論が盛んなってきました。

 アヘン問題に対する意見は大きく二つに分かれました。
一つは弛禁論(しきんろん)、禁令を緩めよ、と云う意味で、アヘン貿易を厳しく取り締まるのをやめて、逆に、公認しようという立場です。
アヘン貿易を公認すれば、輸入アヘンに税金を課す事が可能となり、政府の収入が増え、銀の流出を止める為には、銀での取引を禁止して、物々交換で輸入すれば良く、又、国内で「けし」の栽培を奨励して、自国でアヘンを生産すれば輸入を減らす事が出来ます。

 アヘン中毒患者対策としては、官僚や軍人のアヘン吸飲は流石に禁止を主張しますが、一般民間人に対しては取り締まらず、放任する事を主張しました。
弛禁論者はこの様な理屈を言います。
「アヘンを吸うような者は、皆意志の弱いだらし無い者ばかりだから、その様な連中の事を気にかける必要はない。中毒患者はやがて廃人になり死に絶える。そんな連中がいくら死んでも、中国は人口が多いのだから、大した問題ではない。逆に、だらしの無い連中が死に絶えて、健全な中国人だけが生き残るから、かえってよろしい」と。

 これに対するのは厳禁論。
その名のとおり厳しく取り締まれ、と主張します。
こちらも主眼は銀の流出を如何に止めるかというところにあるのですが、その為にアヘン吸飲者を死刑にしろといいます。
厳罰で挑めばアヘン吸飲者は減る。消費が減れば輸入も減る。輸入が減れば銀の流出も減る、という理屈です。
輸入そのものを取り締まるのではなく、吸飲者を減らす処に出発点があるのが、現在の感覚では少々変わった理屈です。

 この様に、有名無実の禁令が出ているだけで、密貿易は増加の一途で、何らかの対策が必要でした。時の皇帝は道光帝(どうこうてい)、1838年、道光帝は全国の地方長官にアヘン対策についての意見書を提出させました。
回答した29名中、アヘン厳禁に賛成したものはわずか8名、残り21名は厳禁に反対でした。
清朝の官僚達の雰囲気が判りますが、ここまで広がったアヘンを今さら取り締まるなんてもう無理、と主張している様に思えます。

 そのなかで、厳禁論を主張した官僚は、このままアヘンを放置していては国が滅びると云う強い正義感を持った人びとでした。
道光帝は、この厳禁論に賛同します。
なかでも、湖広総督(湖北省・湖南省の長官)林則徐(りんそくじょ)の意見書に、道光帝は注目しました。
厳禁論を主張する林則徐は、ただの理論として厳禁論を言うのではなくて、具体的に取締の実施方法まで細かく提案していたのです。

続く・・・
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