2012/09/25

人類の軌跡その480:アジアに翻るユニオンジャック⑬

<アヘン戦争その⑧>

opium war

◎アヘン戦争

 アヘンの没収と処分は終了しましたが、今後もアヘン貿易を行わない事を約束する、誓約書が提出されません。
林則徐は、イギリス商人に誓約書を要求しましたが、エリオットは断固としてこれを拒否しました。
このままでは貿易を認める事は当然不可能で、林則徐はイギリス商人を広州から追放しました。
この間に、アヘン貿易と関係ないアメリカ商人は誓約書を差し出して広州での貿易量を増加させました。
この様な状況の中、イギリス商人にも、誓約書を出して貿易を行おうとする者も現れましたが、エリオットは抜け駆けを許さず、兵粮攻めにされた上、アヘンを没収された事も許せず、そのアヘンを全て処分されてしまった事も許せません。
イギリスの体面としての問題でも在り、今後アヘン貿易が不可能ならば、イギリスに利益をもたらす事は出来ません。
上記の理由から、誓約書を出す事は出来ず、広州を追い出されたイギリス人達は、マカオに一時避難しますが、ここも追放され香港島周辺で機会を伺いました。

 一方、イギリスでは林則徐によるアヘン没収処分のニュースが伝わると、報復の為戦争をするべきとの議論が高まります。
しかし、麻薬の密輸をして、その麻薬を没収されたから報復するのでは、道理が通りません。
イギリスの政治家にも流石にそう考える人物が居ました。
自由党のグラッドストンは議会でこの様な演説をしています。
「中国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。…これほど不正な恥さらしな戦争は、かつて聞いたことがない。…国旗の名誉はけがされた…。」
しかし、多数決の結果は開戦賛成271、反対262、1840年2月、イギリス政府は出兵を決定しました。

 林則徐は、アヘンを処分して以来英字新聞などを入手して、しきりに海外情勢を研究しました。
イギリスが報復の為、実力行使にでるかもしれないと予想し、広州周辺の沿岸漁民を民兵に組織して軍事訓練を行い、広州湾近辺の要所要所に砲台を築く等、戦争に備えて防備を固めました。

 1840年6月、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍約4000人のイギリス軍が中国に到着しました(42年5月には軍艦25隻、陸軍1万6千人等の援軍到着、うち8割はシパーヒー)。
イギリス軍は、林則徐によって広州周辺の防備が固められている事を察知し、沿岸を北上、杭州湾沖にある船山列島を占領し、渤海湾に入り天津に向かいました。
天津は北京に一番近い港湾都市で、アヘンをめぐるイギリスとの抗争は遠い広州の出来事と考えていた清朝宮廷は、イギリスの艦隊が北京に近づくと大変動揺したのです

 林則徐の抜擢を苦々しく思っていた弛禁論の官僚たちは巻き返しに出ました。
この責任は林則徐の責任で在り、彼を罷免しろという声が政府内で大きくなります。
この様な状況に陥り、道光帝その人の、心が傾いてしまいます。
イギリス艦隊を北京から遠ざける為、道光帝は林則徐を解任、変わって弛禁論の琦善(きぜん)を欽差大臣に任命し、琦善はイギリスに広州で交渉するよう要請しました。

 これを受けてイギリス軍は南下し、広州で琦善とイギリス全権使節ジョージ・エリオットの交渉が始まりました。
琦善は、イギリス人は林則徐を憎んでいるだろうから、林則徐が行った事を全部もとに戻せば、イギリス人が納得し、交渉が有利に進むと考え、林則徐が設置した砲台を撤去し、沿岸に組織した民兵を解散、要所に配置した部隊の兵員削減を進めました。
イギリス側は琦善の態度を見て、陽動作戦を展開します。
イギリス軍が広州への入り口を守る虎門砲台に攻撃を加えると、琦善はイギリスの要求を次々に受け入れた条約案を作成したのでした。

続く・・・


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