2012/09/26

人類の軌跡その481:アジアに翻るユニオンジャック⑭

<アヘン戦争その⑨>

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南京条約締結

◎アヘン戦争②

 一方、北京の宮廷では、イギリス艦隊が広州に去ると強硬論が強まりますが、実に政治方針が場当たり的で節操が無く、政府は琦善が結んだ条約案を拒否し、琦善は解任、北京へ呼び戻されました。

 条約案は決裂し、広州とその周辺で清軍とイギリス軍との戦闘が始まりました。
しかし、林則徐が作り上げた防衛体制は消滅しており、総ての戦闘でイギリス軍が圧倒的優勢を保ち、各地で暴行略奪の連続でした。
一方の清軍は、装備は劣り、士気規律が全く無く、近代的な国民軍ではないので、清の兵士が同じ中国人に対して暴行略奪を行い、しかもイギリス軍が攻撃を開始すると、戦わずに逃亡を繰り返します。

 住民達は、自分達の村を自衛するしかなく、連敗の中国側で唯一イギリスを迎撃した軍事組織がこの農民自衛組織でした。
広州郊外の三元里の農民2万人が平英団と呼ばれる自衛軍を組織し、イギリス軍部隊1000人を包囲するという事件がありました。

 この様に地元の住民達を組織して戦えば、武器が劣っていても、勝つ可能性は存在したかも知れませんが、清の政治家達にはそんな発想は在りませんでした。
平英団も、広州知府(広州の行政長官)の圧力で解散させられ、イギリス側が広州知府に包囲されたイギリス部隊の救出を要請して、その為の解散命令なので、清朝の役人は誰の味方なのか理解に苦しみます。

 広州一帯を荒らし回ったあと、1841年8月、イギリス艦隊は再び北上、廈門(アモイ)、寧波(ニンポー)などを制圧し、42年5月には長江に入り、7月、大運河の入り口に当たる鎮江を占領し、大運河を封鎖した為、8月ついに清朝は降伏し、南京条約を締結しました。

 南京条約の内容は、五港(上海、寧波、福州、廈門、広州)の開港、公行の貿易特権の廃止、香港島をイギリスに割譲、賠償金2100万ドルの支払い、イギリスの領事裁判権の承認、関税自主権の放棄等が謳われていました。
この条約こそ、中国が結んだ最初の不平等条約で在り、五港開港は、開港場を増やす事で、中国市場へイギリスの工業製品を売り込む狙いです。

 この条約は、アヘン取締を発端に起きた戦争で有るにも関わらず、アヘン貿易については一言も触れていません。
イギリスにとって、麻薬貿易は不名誉な事なので、あえて条約には書かなかったと考えてください。この戦争のあと、清朝はアヘン貿易を公然と黙認(?)し、イギリスにとっては事実上アヘン貿易を認めさせたのと同じ事です。

 1844年には、アメリカとフランスが、清朝に迫り同様の条約を締結し、アメリカとの条約が望厦(ぼうか)条約、フランスとの条約が黄埔条約です。

※余談。
戦争の発端と成った林則徐は、1841年にアヘン戦争の責任を問われ、中央アジアのイリ地方に左遷されました。
林則徐はイリでも行政官として多くの仕事を残し、民衆から慕われ長く語り継がれました。
没年は1850年。

 林則徐は欽差大臣を解任されたとき、広州で収集したすべての外国情報を友人の魏源に託しました。魏源はその資料をまとめて『海国図志』を著しました。
この本はすぐに日本に伝えられ、幕末の志士たちが世界情勢を学ぶ貴重な情報源と成ったのです。

アヘン戦争・終わり・・・

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コメント

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No title

こんばんは(^^)
アヘン戦争、最後まで拝見しました。
次の話題、楽しみにしております。
(マイペースでお続け下さい!)

何時もありがとうございます

こんばんは。

お言葉、ありがとうございます。

アヘン戦争は、有名ですが、意外にに知られていない事も多いですね。