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2012/09/27

人類の軌跡その482:アヘン戦争以後の中国①

<太平天国その①>

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◎アヘン戦争後の中国

 アヘン戦争後、中国南部の民衆の生活が悪化しますが、その原因は大きく二つに求められます。
一つは、清朝政府による重税で、清朝はアヘン戦争に関わる戦費の調達、賠償金の支払いの為に増税を行いました。
ここが不思議なのですが、清朝は、増税を全国一律で行いません。
アヘン戦争に関連した中国南部の地域でだけ、増税を行い、戦争で荒廃している処に増税なので、民衆の負担はさらに大きくなりました。

 二つめの原因が、通商交易路の変化です。
南京条約で上海が開港されると、貿易の中心が広州から上海に移り、上海は中国の中央部を流れる長江の下流に在り、また長大な南北海岸線のほぼ中央、当に広大な中国大陸の要衝です。
広州は中国最南部で不便な場所ですから、上海に交易の中心が移るのは当然です。

 それまでは、各地の産物を広州に運ぶ為に、中国南部の民衆の多くが陸上運送に関わる仕事をしていたのですが、広州の港が衰退し彼等の多くは仕事を失いました。
そこに、増税なので、当に踏んだり蹴ったりなのです。
生活基盤が崩れていくという状況が広がっていました。

◎洪秀全

 生活困窮し疲弊している中国南部に、新しい宗教が生まれました。
この宗教を作った人物が洪秀全(1813年~64年)、広西省の客家(ハッカ)出身です。
ここで客家とは、中国南部に広く分布している人々で、普通の中国人とは文化風習や言葉が少し異なり、宋代の頃、戦乱から逃れて中国北部から移住してきた人びとの子孫だと言われています。
後から移住してきたので、その多くが人の住んでいない山間部の荒れた土地に住みつきました。
そのため、客家の多くは貧しく、周囲の人々と溶けあわず独自の文化を守りつづけた為、差別されていました。
洪秀全は、その様な客家の人です。

 中国では、いくら貧しくても、一発逆転で富と名誉を手に入れる方法が有りました。
それが、科挙です。
科挙は男子であれば、誰でも受験する事が可能で、客家でも問題は在りません。
しかしながら、超難関試験で誰でも簡単に合格できる試験では無く、今日で言う秀才型でないと合格は難しいものでした。
従って、中国では、神童と呼ばれる様な賢い男の子が誕生すると、親戚中でお金を出し合って、塾に行かせて科挙の準備をさせます。
もし、その子が科挙に合格して、官僚になれば一族全員が間違いなく大金持ちになれるからです。

 洪秀全は、まさしくその様な神童で、親戚全員から期待されて、一族の総てが朝から晩まで野良仕事をしている中で、小さい頃から一人、勉強だけをさせられました。

続く・・・

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