人類の軌跡その487:アヘン戦争以後の中国⑥
<太平天国その⑥>

チャールズ・ジョージ・ゴードン(Charles George Gordon、1833年1月28日 - 1885年1月26日)
◎太平天国に対抗した義勇軍
太平天国内部では抗争で、弱体化が始まってはいましたが、清朝正規軍はそれよりも脆弱でした。そこで、清朝政府は全国にいる引退した元官僚や、服喪などで帰郷している現役官僚に対して、地元で義勇軍を結成して太平軍と戦うように呼びかけます。
義勇軍の事を郷勇と呼び、清朝で官僚になる人物は裕福な地主出身層が多く、郷土に帰れば名前がとどろいている地域の指導者です。
彼等が中心になれば義勇軍は立ちどころに編成されます。
又、戦乱に巻きこまれれば、郷土が荒廃し自分自身の財産も奪われてしまう訳ですから、義勇軍は必死に戦います。
正規軍に替わって、この義勇軍が太平天国と戦いました。
義勇軍の中で、とりわけ強力な部隊が、今風に言えば文部大臣に相当する礼部侍郎(れいぶじろう)の曾国藩(そうこくはん)が郷里の湖南省で結成した湘軍(しょうぐん)です。
湘は湖南地方の雅名で、曾国藩は、清朝軍が内部の腐敗で、弱体化している事を知り尽くしており、自分が組織する義勇軍の将校は、腐敗や堕落と縁のない信頼できる人物だけで固めようとしました。
そのための方法は、学問上の弟子や同学の友人ばかりを集めます。
科挙に合格して中央の大臣に迄、出世する人物は、学者としても一流の人物である場合が多く、曾国藩はまさしく大学者だったので、地元には同門の者や弟子がたくさんいるわけです。
学問上の信頼関係は結構強い絆で、将校になる連中も、やはり殆どが地主でから、自分たちの土地で働く信頼できる素朴な農民を兵士にしました。
湘軍は、規律ある軍隊となり、太平天国軍を圧迫していきました。
又、曾国藩の弟子である李鴻章(りこうしょう)も安徽省で同じように淮軍(わいぐん)を組織しました。
欧米列強は、太平天国の反乱が始まった当初は、太平天国がキリスト教を標榜していることもあり、わりと好意的に中立を守っていましたが、内乱を逃れて多くの難民が上海に集まる等、やがて、内乱が対中国貿易にはマイナスと判断します。
1860年に貿易に有利な北京条約を清朝政府と結んだ後は、積極的に清朝支援を打ち出しました。
米国人ウォードは、中国人を集めて義勇軍「常勝軍」を結成し、かれの死後は、イギリス軍人ゴードンがこれを引き継ぎ太平天国軍と戦いました。
因みに、このゴードンは、太平天国で活躍したあと、エジプトのスーダンで起きたマフディーの乱とよばれる現地住民の反英闘争の鎮圧におもむき、戦死しています。(この物語は、映画ハルツームとして制作されています)
これらの義勇軍によって太平天国は徐々に支配地域を奪われ、1864年、南京が陥落し太平天国は滅亡しました。
最後迄、神の奇蹟による逆転勝利を信じていた洪秀全は、その直前に病死しており、忠王李秀成は捕虜となり処刑され、翼王石達開はその後もしばらく単独で戦いつづけましたが、これもやがて鎮圧されました。
◎太平天国の意義
太平天国の反乱は、清朝政府の弱体ぶりを明らかにしました。
又、太平天国が、「滅満興漢」のスローガンを掲げ、民族運動的な性格を持った事は中国革命の先駆けとして位置づけることができます。
事実、後に辛亥革命のリーダーとして清朝を倒した孫文は、少年時代に洪秀全を知る太平天国軍の生き残りの老人の話を聞いて、すっかり影響を受けて友人から洪秀全というあだ名をつけられていたといいます。
中国共産党の軍隊である紅軍の司令官となった朱徳(しゅとく)も、少年時代に翼王石達開の部下だった機織り職人の話を聞き、革命に強いあこがれを持ちました。
脈々と革命の志が受け継がれているのがわかります。
幕末日本にも影響がありました。
長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)は「英仏がいまだ日本に武力を加えないのは太平軍が英仏と戦っているからだ」と言っています。
この認識が正しいかどうかは別にして、中国の次は日本が英仏の侵略の標的になる、という危機感が感じられます。
太平軍が時間を稼いでくれている間に、日本を変えなければならない、この意識が、幕府を倒す強烈な原動力になります。
一方、郷勇を組織し、太平天国を鎮圧するのに活躍した官僚達は、乱後の清朝の政界で大きな影響力を持ち、清朝の改革がはじまります。
太平天国・終わり・・・

チャールズ・ジョージ・ゴードン(Charles George Gordon、1833年1月28日 - 1885年1月26日)
◎太平天国に対抗した義勇軍
太平天国内部では抗争で、弱体化が始まってはいましたが、清朝正規軍はそれよりも脆弱でした。そこで、清朝政府は全国にいる引退した元官僚や、服喪などで帰郷している現役官僚に対して、地元で義勇軍を結成して太平軍と戦うように呼びかけます。
義勇軍の事を郷勇と呼び、清朝で官僚になる人物は裕福な地主出身層が多く、郷土に帰れば名前がとどろいている地域の指導者です。
彼等が中心になれば義勇軍は立ちどころに編成されます。
又、戦乱に巻きこまれれば、郷土が荒廃し自分自身の財産も奪われてしまう訳ですから、義勇軍は必死に戦います。
正規軍に替わって、この義勇軍が太平天国と戦いました。
義勇軍の中で、とりわけ強力な部隊が、今風に言えば文部大臣に相当する礼部侍郎(れいぶじろう)の曾国藩(そうこくはん)が郷里の湖南省で結成した湘軍(しょうぐん)です。
湘は湖南地方の雅名で、曾国藩は、清朝軍が内部の腐敗で、弱体化している事を知り尽くしており、自分が組織する義勇軍の将校は、腐敗や堕落と縁のない信頼できる人物だけで固めようとしました。
そのための方法は、学問上の弟子や同学の友人ばかりを集めます。
科挙に合格して中央の大臣に迄、出世する人物は、学者としても一流の人物である場合が多く、曾国藩はまさしく大学者だったので、地元には同門の者や弟子がたくさんいるわけです。
学問上の信頼関係は結構強い絆で、将校になる連中も、やはり殆どが地主でから、自分たちの土地で働く信頼できる素朴な農民を兵士にしました。
湘軍は、規律ある軍隊となり、太平天国軍を圧迫していきました。
又、曾国藩の弟子である李鴻章(りこうしょう)も安徽省で同じように淮軍(わいぐん)を組織しました。
欧米列強は、太平天国の反乱が始まった当初は、太平天国がキリスト教を標榜していることもあり、わりと好意的に中立を守っていましたが、内乱を逃れて多くの難民が上海に集まる等、やがて、内乱が対中国貿易にはマイナスと判断します。
1860年に貿易に有利な北京条約を清朝政府と結んだ後は、積極的に清朝支援を打ち出しました。
米国人ウォードは、中国人を集めて義勇軍「常勝軍」を結成し、かれの死後は、イギリス軍人ゴードンがこれを引き継ぎ太平天国軍と戦いました。
因みに、このゴードンは、太平天国で活躍したあと、エジプトのスーダンで起きたマフディーの乱とよばれる現地住民の反英闘争の鎮圧におもむき、戦死しています。(この物語は、映画ハルツームとして制作されています)
これらの義勇軍によって太平天国は徐々に支配地域を奪われ、1864年、南京が陥落し太平天国は滅亡しました。
最後迄、神の奇蹟による逆転勝利を信じていた洪秀全は、その直前に病死しており、忠王李秀成は捕虜となり処刑され、翼王石達開はその後もしばらく単独で戦いつづけましたが、これもやがて鎮圧されました。
◎太平天国の意義
太平天国の反乱は、清朝政府の弱体ぶりを明らかにしました。
又、太平天国が、「滅満興漢」のスローガンを掲げ、民族運動的な性格を持った事は中国革命の先駆けとして位置づけることができます。
事実、後に辛亥革命のリーダーとして清朝を倒した孫文は、少年時代に洪秀全を知る太平天国軍の生き残りの老人の話を聞いて、すっかり影響を受けて友人から洪秀全というあだ名をつけられていたといいます。
中国共産党の軍隊である紅軍の司令官となった朱徳(しゅとく)も、少年時代に翼王石達開の部下だった機織り職人の話を聞き、革命に強いあこがれを持ちました。
脈々と革命の志が受け継がれているのがわかります。
幕末日本にも影響がありました。
長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)は「英仏がいまだ日本に武力を加えないのは太平軍が英仏と戦っているからだ」と言っています。
この認識が正しいかどうかは別にして、中国の次は日本が英仏の侵略の標的になる、という危機感が感じられます。
太平軍が時間を稼いでくれている間に、日本を変えなければならない、この意識が、幕府を倒す強烈な原動力になります。
一方、郷勇を組織し、太平天国を鎮圧するのに活躍した官僚達は、乱後の清朝の政界で大きな影響力を持ち、清朝の改革がはじまります。
太平天国・終わり・・・
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