2012/10/05

人類の軌跡その489:アヘン戦争以後の中国⑧

<アロー戦争・洋務運動その②>

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◎アロー戦争②

 この2年前の1856年、広西省でフランス人の宣教師が殺害される事件が起きており、フランスもイギリスと共同で清朝に宣戦しました。
フランスはナポレオン3世の時代です。

 1857年に、インドで大反乱が勃発した煽りで、本格的な戦闘は57年末からはじまり、英仏連合軍が海路北上し天津に迫ると、清朝は降伏し、58年天津条約が結ばれました。
この条約には、イギリス、フランスの他に、ロシア、アメリカも参加しています。
条約が結ばれて、英仏軍が去ると、清朝政府内で、対外強硬派が力を持ち始め、喉元過ぎれば熱さを忘れるこの傾向は、清朝政府の対外政策の一貫性のなさで、アヘン戦争以来全然変わっていません。

 1859年に、英仏の使節団が、条約の批准書を交換する為に来朝しますが、天津の近くで清朝側がこの使節団を砲撃して追い返し、1860年には、再び英仏連合軍が北上し、北京に向けて進撃しました。
皇帝(咸豊帝(かんぽうてい))は、北方の熱河の離宮に逃亡し、北京に残された政府が連合軍と北京条約を結び清朝は、再び降伏しました。

 この時に、北京近郊にあった円明園(えんめいえん)は、英仏軍によって略奪破壊されてしまいまいます。
宣教師カスティリオーネがヴェルサイユ宮殿を摸して設計した宮殿でしたが、現在でも、円明園の跡地は廃墟として残されています。

◎北京条約

1)開港場の増加し、天津や南京等11港を新たに開港する。
2)キリスト教の布教の自由。
3)外国人の中国国内の旅行が自由に成り、これにより、商人はどこにでも行けるようになりました。それまでは、開港されていた五港から出ることは出来なかったのです。
4)北京に、外国公使の駐在を認める。
5)イギリスに九龍半島の一部を割譲、九龍半島は香港島の対岸にある半島で、現在では、一般には香港の一部として知られています。
6)アヘン貿易の公認。
アヘン戦争後の南京条約では触れられていなかったアヘンについて、ついに正式に認めさせ、これに伴って、清朝は民間人に対してのアヘン吸飲を認めることになりました。
麻薬貿易も自由、吸うのも自由です。

 北京条約によって、中国の半植民地化は深まり、1862年上海に密航した長州藩の高杉晋作が「上海は中国に属している土地なのに、イギリス・フランスに所属しているといってもよい」と述べるほどに中国の半植民地化は一層進んでいきました。

 忘れてはならないのは、この時期、南京を中心として太平天国の反乱が起きているということです。内側に反乱、外からは外国の侵略と、大変な状態の中で、不平等な条約でも結ばざるを得なかったのです。
英仏にとっては、自分たちの要求を呑ませたわけですから、清朝政府にこの条約を厳正に守らせる為には、清朝に存続して貰う事が重要で、これ以後、太平天国平定に力を貸すように成りました。

続く・・・
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