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2012/10/09

人類の軌跡その491:幕末①

<日本の開国その①>

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◎ペリーの来航と明治維新

 西欧列強の勢力はトルコ、インド、中国と徐々に東に向かい、いよいよ日本に本格的に来航しました。
これが、1853年、アメリカ海軍提督ペリーの来航です。
時期的には、アヘン戦争終結10年後、太平天国の反乱がはじまって2年目の事です。
ペリーの来航によって、「幕末」がはじまります。
徳川幕府が崩壊して明治維新によって新政府が成立する激動の時代です。

 徳川時代の外交政策は、鎖国政策ですが、実際には、中国、朝鮮、オランダとは貿易をおこない、使節の来朝がありました。
インドや中国がイギリスなどのために如何なる状況に陥っているのか、武士階級を中心とする日本の読書人たちは、長崎にやってくるオランダ人や中国人からの情報で知っていました。
それどころか、徳川幕府の為政者たちは、アメリカのペリーが日本に来航することも、オランダ人からの情報で知っていたのです。

 ペリーが来航する50年以上前の18世紀末から、徳川幕府に貿易を要求するロシア船が来航していました。
1792年にはエカチェリーナ2世がラクスマンを根室に派遣、1804年にはレザノフが長崎に来航し、貿易を求めて拒否されています。
19世紀にはいると、イギリスの捕鯨船の乗員が燃料や水を求めて鹿児島や茨城に上陸したりする事件が起き、日本人漂流者を乗せたアメリカ船を日本側が砲撃して追い払うというモリソン号事件もありました(1837年)。

 当初、幕府は長崎以外の場所に近づく外国船は砲撃して追い払うという方針をとっていましたが、アヘン戦争の成り行きを知ると、燃料不足、食糧不足で困っている外国船には便宜を与えてお引き取り願うという方針に転換します。
 
 しかし、鎖国の方針は変えない。1844年、オランダ国王は世界情勢を説き鎖国をやめるよう幕府に忠告する国書を送るのですが、幕府はこれを無視しています。

 この様な世相の中で来航したのがペリーです。
ペリーの目的は日本を開国させることでした。
開国の理由は、第一に、日本をアメリカの捕鯨船の補給基地として利用したかった事。
当時、アメリカは北太平洋で捕鯨をさかんに行なっていました。
目的は鯨油で、石油が使われる前は鯨油が燃料として利用されていました。
消費されるのは油だけで、鯨肉は食べずに廃棄していました。
年平均100隻の捕鯨船が操業していたといいます。

 もう一つは、蒸気船でアメリカから中国へ直行するための中継基地として日本を利用したかった事既に、蒸気船が遠洋航海に利用されていましたが、当時はまだ太平洋横断に必要な石炭を蒸気船に積めなかったのです。
 
 その為、ペリーが日本に来航したときに、通った航路は東回りです。
太平洋を横断して日本に来たようにイメージしている人が多いと思いますが、ペリーはアメリカ東海岸のノーフォーク港を出発して、大西洋を横断後、アフリカを回ってインド洋、香港、上海、琉球を経由しています。
アメリカの出帆が1852年11月24日、浦賀沖到着が53年6月3日ですから、約半年を費やしています。

続く・・・

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