2012/10/11

人類の軌跡その493:幕末③

<日本の開国その③>

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◎ペリーの来航と明治維新②

 日米和親条約は、単に日本の開国を決定した条約で、貿易に関する規定はありませんでした。
この為、日米和親条約に基づいて来日した、アメリカ総領事ハリスと幕府の間で貿易に関する条約交渉が開始され、1858年に日米修好通商条約が締結されました。
この条約では、日本の関税自主権が存在せず、アメリカの領事裁判権をも認める、不平等条約でしたが、この後幕府は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結びます。

 ペリー来航から、日米修好通商条約を結ぶ迄の過程で、それまで独裁政治を行ってきた江戸幕府はその威信を喪失し、朝廷に経過報告を行い、条約調印の許可を求め、諸大名に意見を求める様になりました。
幕府の外交政策に対するこの様な自主性の無さは、江戸幕府を恐れて政治的意見を控えていた諸大名や一般の武士階級を一気に勢いづかせ、更に江戸幕府の権威低下に伴い、朝廷の権威が急上昇する事になりました。

 外交問題に対して、世論は沸騰しました。
このなかで主流となった意見は、江戸幕府の弱腰を非難し、鎖国を守り、外国勢力を撃退せよ、と云うもので、幕府が弱腰ならば、朝廷を押し立てて外国人を追い払えとする「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」の掛け声が広がっていきます。

 しかし、実務を担当する幕政担当者にとって見れば、強大な軍事力を持つ欧米列強を拒絶できるものでは無く、それは、ペリー艦隊を見れば一目瞭然でした。
ペリー艦隊が江戸湾に進入し、砲弾を撃ち込めば、江戸の町は壊滅します。
あの中国でさえ、何千里も彼方から遠征したイギリス軍にアヘン戦争で敗れ、アロー戦争でも敗れつつ在ったのです。

 反対派を大弾圧して、日米修好通商条約を結んだ大老井伊直弼は、「条約を拒否して戦争になり、敗れれば、領土を割かれ、賠償金を支払い、国辱を受けることになる。実害のない方を選択するのはやむを得ない」と語っています。
中国の二の舞、植民地化される事を恐れていたのです。

 この後、尊皇攘夷運動は討幕運動へと展開し、政権担当能力を無くした徳川幕府を倒し世界情勢に対応できる新政府樹立をめざし、下級武士層が、尊皇攘夷運動で世の中を揺り動かし、その運動の流れに乗った、薩摩藩、長州藩が中心となって幕府を倒すことに成功しました。
これが1868年の明治維新と成ります。

 薩摩藩、長州藩は、幕末の時期に実際に攘夷を実行し、イギリスなどと戦い敗れています。
その実力を知ってからは、幕府を倒し、新政府を樹立し、大胆な開国政策で欧米文化を取り入れていかなければ日本が滅びると考えるようになっていました。
はやくも明治維新が成功する前から、長州藩も薩摩藩も独自に留学生をイギリスに派遣している程で、長州藩の高杉晋作は、上海に密航して中国の現状を実際に見聞し、攘夷(外国人を追い払う)など、出来るはずが無く、欧米に対抗するには、欧米文化を取り入れなければならないと考えたのは無理からぬ事でした。
1861年には、ロシアが約半年間対馬の一部を占領するという事件も起きており(ロシア艦ポサドニック号による。イギリス軍の圧力で退去)、植民地化の恐れは、今私達が想像する以上に、現実的なものだったと思います。

続く・・・

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