2012/10/12

人類の軌跡その494:幕末④

<日本の開国その④>

img_482105_19226937_0.jpg

◎日本の改革

 徳川幕府に代わって成立した明治政府は、次々と大胆な改革を断行し近代的な、言い換えれば、ヨーロッパ的な国民国家をつくりはじめました。

 1871年には、廃藩置県によって藩を廃止、中央集権制度を確立します。
1872年には徴兵令を公布し、国民皆兵の原則を確立、国民国家をつくるためには、徳川時代の士農工商のうち農工商は平民とし、それまでは許されていなかった苗字を許可し、他の身分との結婚、職業選択、移住の自由を認めました。
旧藩主や公家は華族、武士階級は士族となりますが、華族、士族、平民の区別が存在する以上、平等なのかと云う考え方も存在します。
華族は確かに特権階級なのですが、身分間の通婚が自由である箇所が重要であると思います。
現実に、この後、士族と平民という違いは、何の意味も無くなり、人口に占める割合が極少でも華族身分があるので、「四民平等」はまやかしと言えばまやかしなのですが、この言葉自体は実感をともなって広まり、受け入れられたように思います。

 明治政府の目指すところは、西欧列強と互角の国づくりですから、「殖産興業」と云うスローガンのもと、近代工業の育成に力を入れ、工業化によって国を豊かにして、強力な軍隊をつくる。
「富国強兵」政策を推進する事で、植民地化を免れる事が出来ます。

 この明治政府のさまざまな改革の方向性を一言で表した言葉が「文明開化」。
中国の洋務運動の「中体西用」と比べてみるとその特徴が明確に理解出来ます。
中国ではあくまで中国の文明が変更不要の「体」として、中心に据えられていますが、日本の場合は、西洋化によって「文明」が開くのですから、それ以前の徳川時代迄の日本の文化を全面否定していると考えて良いと思います。

 見た目で一番わかりやすいところで言えば、服装。
女性の服装が変化するのはゆっくりですが、男性の公的な場面での服装が一気に替わり、1871年に条約改正のために欧米を歴訪した岩倉使節団では、正使の岩倉具視は着物(和装)を着ていますが、大久保利通や木戸孝允など他の副使以下はすべて背広にネクタイ姿です。
明治維新の3年後ですから、この変化の速さは驚くべき事です。
明治政府は西洋化を推進する為、公務員には洋服を着用させました。
役所の部屋に入室するときも靴を履いたままでいるように命じるのが1871年です。 
伝統であり慣習である服装という文化を一気に変えるのは難しく、そこで、政府は天皇にも洋装させます。
明治天皇の若いころの写真では、伝統的な装束を身につけたものは大変少なく、それ以外すべて洋装、若しくは軍服をつけての写真や肖像画が浮かんできます。
天皇ですら洋装なのですから、役人は全て洋装になるわけです。

続く・・・

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

No title

こんにちは~

世界188か国、総勢2万人もの人が参加する年次総会。
エジプトが辞退したため、日本が開催を準備した経緯がありましたが
中国は不参加減速する世界経済にどう対応していくのか。IMF加盟各国は、
新興国の台頭など現実に向き合う必要性に迫られているようです・・・

ブログの方をリニューアルいたしましたので、
挨拶に伺わせていただきました~♪
遊びにきてくださいね~
みんなで盛り上がりましょうo(^▽^)o