人類の軌跡その495:幕末⑤
<日本の開国その⑤>

台湾出兵・旗艦「龍驤」(初代)
◎日本の改革②
しかしながら、庶民のプライベートの時間迄、洋装になるには、まだまだ時間がかかっています。
この1871年には裸体禁止令が発布されます。
裸で出歩く人が可也の数に及び、外国人の目にはまさしく野蛮そのものに見えたのが、恥ずかしかったのでしょう。
昭和の初期、地引き網を引いている漁師の写真を見ると、素っ裸の人が可也目に付きます。
夏目漱石が学生時代に、瀬戸内の友人の家に遊びに行って、ふんどし一丁で海に遊びに行き海岸で貝をたくさん捕ったのですが、両手に持ちきれないので、ふんどしをほどいて、これに貝を包んで、素っ裸で宿に帰ったという話もあります(伊藤整『日本文壇史』)。
浮世絵を見ても、ふんどし姿の男が多く登場し、日本の文化の根底は、裸に寛容だと思います。
福沢諭吉を初めとして啓蒙思想家が、ヨーロッパの思想や制度を次々に紹介しました。
その様な風土の中で、民主主義的な考え方も徐々に広まり、明治政府は基本的には、薩摩・長州出身者による藩閥独裁政治ですが、これに対して、自由民権運動が起こり始めるのは1870年代半ばからでした。
民主化運動の現れです。
明治政府も、一定の譲歩を示し、徐々に民主化を行います。
1881年には、「国会開設の詔」を発表し、10年後の国会開設を約束、1889年には大日本帝国憲法を発布、1890年には国会を開設しました。
政治制度も完全に西欧式に変え、明治政府の中心である薩長藩閥グループにとっては、民主化自体はあまりやりたくなくても、西欧列強に日本を文明国として認めてもらうには、憲法を制定し国会を開かなれればならないということは強烈に意識していました。
◎明治政府の対外政策
明治政府による国境の確定は次のようにすすめられました。
1872年、琉球王国を滅ぼし琉球藩を設置、琉球藩は1879年には沖縄県となり、完全に日本の領土となります。
北方に関して、徳川幕府が1855年にロシアと結んだ日露和親条約では、樺太は日露雑居地、択捉(エトロフ)島以南が日本領とされました。
1875年には、樺太・千島交換条約によって、樺太はロシア領、シュムシュ島以南の全千島列島が日本領となりますが、領土の大きさからいえば、圧倒的に樺太が広いのです。
中国との関係では、1871年清朝との間に日清修好条規を締結。
これは、ヨーロッパのルールに基づいた条約で、日本が中国を中心とした従来の東アジアの国際秩序から抜け出し、ヨーロッパ風の国として中国もそれを承認したのです。
この条約で、日本と清は対等に成りました。
1874年には台湾出兵を行い、約3000名の日本兵が台湾を占領した事件で、2つの意味が在りました。
ひとつは、この戦争の原因は琉球の漁民が台湾に漂着して現地民に殺された事件だったのですが、日本政府が清朝政府に抗議すると、清朝はこれに対して、殺したのは台湾の原住民で清朝の国民ではないから関知しないと報告します。
実は、清朝は日本からの抗議そのものを受け付けないという選択肢があったのです。
琉球はこの時点で、日本によって琉球藩とされていますが、徳川時代からこの時点まで、清朝に朝貢していました。
日本と清に両属しているわけですら、清は、琉球はわが国の属邦である、日本にこれを抗議する権利はないと主張する事が可能でした。
しかし、清はその様な回答を行わず、日本が琉球を領土としていることを事実上認めたのです。
しかも、清に責任が無いのであれば、台湾の原住民に責任をとらせるために出兵しても良いと云う理屈に成ります。
幕末維新で活躍した武士、士族階級は、明治に変わってさまざまな特権が奪われ、不満が溜まっていました。
特に、薩摩をはじめとする九州や長州の士族に不満が多く、明治政府としては、この不満のはけ口として、戦争を起こす必要も在りました。
その為、台湾遠征軍には薩摩士族が多く従軍しています。
台湾出兵の背景には、上述の様に国内の旧士族階層の不満を逸らす、目的が有ったのですが、台湾を占領しても、日本はこの土地を領土として維持していくだけの準備も力量も無く、イギリスの調停により撤兵します。
日本の開国・終わり・・・

台湾出兵・旗艦「龍驤」(初代)
◎日本の改革②
しかしながら、庶民のプライベートの時間迄、洋装になるには、まだまだ時間がかかっています。
この1871年には裸体禁止令が発布されます。
裸で出歩く人が可也の数に及び、外国人の目にはまさしく野蛮そのものに見えたのが、恥ずかしかったのでしょう。
昭和の初期、地引き網を引いている漁師の写真を見ると、素っ裸の人が可也目に付きます。
夏目漱石が学生時代に、瀬戸内の友人の家に遊びに行って、ふんどし一丁で海に遊びに行き海岸で貝をたくさん捕ったのですが、両手に持ちきれないので、ふんどしをほどいて、これに貝を包んで、素っ裸で宿に帰ったという話もあります(伊藤整『日本文壇史』)。
浮世絵を見ても、ふんどし姿の男が多く登場し、日本の文化の根底は、裸に寛容だと思います。
福沢諭吉を初めとして啓蒙思想家が、ヨーロッパの思想や制度を次々に紹介しました。
その様な風土の中で、民主主義的な考え方も徐々に広まり、明治政府は基本的には、薩摩・長州出身者による藩閥独裁政治ですが、これに対して、自由民権運動が起こり始めるのは1870年代半ばからでした。
民主化運動の現れです。
明治政府も、一定の譲歩を示し、徐々に民主化を行います。
1881年には、「国会開設の詔」を発表し、10年後の国会開設を約束、1889年には大日本帝国憲法を発布、1890年には国会を開設しました。
政治制度も完全に西欧式に変え、明治政府の中心である薩長藩閥グループにとっては、民主化自体はあまりやりたくなくても、西欧列強に日本を文明国として認めてもらうには、憲法を制定し国会を開かなれればならないということは強烈に意識していました。
◎明治政府の対外政策
明治政府による国境の確定は次のようにすすめられました。
1872年、琉球王国を滅ぼし琉球藩を設置、琉球藩は1879年には沖縄県となり、完全に日本の領土となります。
北方に関して、徳川幕府が1855年にロシアと結んだ日露和親条約では、樺太は日露雑居地、択捉(エトロフ)島以南が日本領とされました。
1875年には、樺太・千島交換条約によって、樺太はロシア領、シュムシュ島以南の全千島列島が日本領となりますが、領土の大きさからいえば、圧倒的に樺太が広いのです。
中国との関係では、1871年清朝との間に日清修好条規を締結。
これは、ヨーロッパのルールに基づいた条約で、日本が中国を中心とした従来の東アジアの国際秩序から抜け出し、ヨーロッパ風の国として中国もそれを承認したのです。
この条約で、日本と清は対等に成りました。
1874年には台湾出兵を行い、約3000名の日本兵が台湾を占領した事件で、2つの意味が在りました。
ひとつは、この戦争の原因は琉球の漁民が台湾に漂着して現地民に殺された事件だったのですが、日本政府が清朝政府に抗議すると、清朝はこれに対して、殺したのは台湾の原住民で清朝の国民ではないから関知しないと報告します。
実は、清朝は日本からの抗議そのものを受け付けないという選択肢があったのです。
琉球はこの時点で、日本によって琉球藩とされていますが、徳川時代からこの時点まで、清朝に朝貢していました。
日本と清に両属しているわけですら、清は、琉球はわが国の属邦である、日本にこれを抗議する権利はないと主張する事が可能でした。
しかし、清はその様な回答を行わず、日本が琉球を領土としていることを事実上認めたのです。
しかも、清に責任が無いのであれば、台湾の原住民に責任をとらせるために出兵しても良いと云う理屈に成ります。
幕末維新で活躍した武士、士族階級は、明治に変わってさまざまな特権が奪われ、不満が溜まっていました。
特に、薩摩をはじめとする九州や長州の士族に不満が多く、明治政府としては、この不満のはけ口として、戦争を起こす必要も在りました。
その為、台湾遠征軍には薩摩士族が多く従軍しています。
台湾出兵の背景には、上述の様に国内の旧士族階層の不満を逸らす、目的が有ったのですが、台湾を占領しても、日本はこの土地を領土として維持していくだけの準備も力量も無く、イギリスの調停により撤兵します。
日本の開国・終わり・・・
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