人類の軌跡その496:朝鮮半島
<朝鮮の開国と日清両国の動き>

◎日本に強要された朝鮮の開国
1871年に日本は清朝と日清修好条規を結び、朝鮮にも国交求めました。
しかし、朝鮮は清国を宗主国とする伝統的な外交秩序のなかに自国を位置づけ、西欧諸国に対しては鎖国政策を行なっていた事から、近代化した日本との通商を拒否しました。
1875年、朝鮮の首都京城に近い江華島の沖で、日本の軍艦雲揚号に朝鮮軍が砲撃を加える事件が発生(江華島事件)しますが、雲揚号が無断で測量を行い、朝鮮側を意図的に挑発した結果でした。
日本は、江華島事件の責任を問う形で朝鮮と交渉を推進し、1876年、日朝修好条規が結ばれました。
この条約により朝鮮は開国し、釜山など三港を開港しましたが、この条約は日本の領事裁判権を認める不平等条約でも在り、ペリーが日本に対して行った事例と同じ事を、日本は朝鮮に迫った結果でした。
この後、朝鮮はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を結びます。
◎朝鮮政府内の対立
朝鮮政府内では、国王高宗(在位1863年~1907年)の実父大院君と王妃閔妃(ミンビ)がそれぞれ派閥を作り権力闘争を展開しており、開国後の政権運営についても、清朝の庇護の下で伝統を守ろうとする守旧派と、近代化をめざす開化派の路線対立も生じていました。
1873年から政権を掌握した閔妃派政権は、開化路線を選択し日本から軍事顧問を招き、洋式軍隊の創設に着手しますが、これに不満を抱いた旧式軍の兵士達が、1882年反乱を起こすと(壬午軍乱)、開国後の米価高騰に不満を持つソウルの下層民衆もこれに加わり、閔妃派と日本公使館が襲われます。
この反乱を利用して大院君は政権を奪取したものの、宮殿から脱出した閔妃が清に救援を要請した為、清軍3000名が出動して反乱を鎮圧、大院君は捕らえられ中国に送られました。
返り咲いた閔妃派政権は、保守的傾向と清への依存を深めるように成り、一方、軍事顧問が殺害された日本も出兵し、公使館に兵士を駐屯させる権利を得ました。
◎急進開化派の動向
事件後、朝鮮は謝罪使を日本に派遣しましが、その中に金玉均(キムオクキュン)等の若手開化派官僚が含まれていました。
金玉均は1882年にも日本に視察旅行を行い、朝鮮の改革に期待を寄せる福沢諭吉の紹介で井上馨、大隈重信、渋沢栄一等と面識を得ており、今回も福沢などと接触して、日本をモデルにして一刻も早く朝鮮の近代化を図る事が必要と考えるようになりました。
帰国後、金玉均らは急進開化派として政治改革を試みますが、守旧派の抵抗で身動きがとれず焦りを募らせていました。
1884年12月4日、金玉均ら急進開化派は、クーデタを決行し、京城駐在日本公使が軍事援助を約束したのです。また清の朝鮮駐屯軍が清仏戦争の影響で3000名から1500名に減らされたことも好機と考えられました。
金玉均らは、国王の身柄を確保した上で閔妃派の政府要人を殺害し、5日には新政権樹立と改革を宣言しました。この間日本兵約150人は王宮の占拠に従事していましたが、6日に袁世凱率いる1500名の清軍が王宮に至り日本軍を攻撃すると、日本軍は小競り合いの後に金玉均ら開化派を見捨てて退去したのです。
又事件を知った民衆によって、日本公使館が焼き討ちに遭遇し、日本公使も京城から逃れました。
閔妃派の守旧派政権が復活し、事件に関わった開化派は処刑され金玉均は日本に亡命しますが、この事件を甲申政変と呼びます。
事件の翌月、日本は京城に軍隊を派遣し、自らの責任には触れず、朝鮮政府に公使館焼き討ちに対する謝罪と賠償を要求して認めさせました。
又、日清両国は朝鮮に駐屯する両軍の衝突を避ける目的で、1885年、天津条約を締結、朝鮮からの日清両国軍の撤兵、朝鮮へ派兵する場合は、相互に事前通告する事を確認しますが、いずれ清朝との戦争を不可避と考えた日本は、この後戦争準備を推進します。
◎金玉均と福沢諭吉
亡命した金玉均は日本政府にとっても利用価値はなく、小笠原の父島や、北海道に移送され罪人同様の扱いをうけました。
日本に見切りをつけた金玉均は1894年上海に渡りますが、その地で朝鮮政府から派遣された刺客に暗殺され、遺体は京城に運ばれ「大逆無道玉均」として晒され、「日本が東洋のイギリスならば、朝鮮はフランスに…」との彼の夢は、日本の軍事力を頼ったため破れたのでした。
福沢諭吉は、近代化されたアジア諸国との連帯を模索していましたが、甲申政変以後、朝鮮近代化への期待を捨て「脱亜入欧」を唱える事になります。
続く・・・

◎日本に強要された朝鮮の開国
1871年に日本は清朝と日清修好条規を結び、朝鮮にも国交求めました。
しかし、朝鮮は清国を宗主国とする伝統的な外交秩序のなかに自国を位置づけ、西欧諸国に対しては鎖国政策を行なっていた事から、近代化した日本との通商を拒否しました。
1875年、朝鮮の首都京城に近い江華島の沖で、日本の軍艦雲揚号に朝鮮軍が砲撃を加える事件が発生(江華島事件)しますが、雲揚号が無断で測量を行い、朝鮮側を意図的に挑発した結果でした。
日本は、江華島事件の責任を問う形で朝鮮と交渉を推進し、1876年、日朝修好条規が結ばれました。
この条約により朝鮮は開国し、釜山など三港を開港しましたが、この条約は日本の領事裁判権を認める不平等条約でも在り、ペリーが日本に対して行った事例と同じ事を、日本は朝鮮に迫った結果でした。
この後、朝鮮はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を結びます。
◎朝鮮政府内の対立
朝鮮政府内では、国王高宗(在位1863年~1907年)の実父大院君と王妃閔妃(ミンビ)がそれぞれ派閥を作り権力闘争を展開しており、開国後の政権運営についても、清朝の庇護の下で伝統を守ろうとする守旧派と、近代化をめざす開化派の路線対立も生じていました。
1873年から政権を掌握した閔妃派政権は、開化路線を選択し日本から軍事顧問を招き、洋式軍隊の創設に着手しますが、これに不満を抱いた旧式軍の兵士達が、1882年反乱を起こすと(壬午軍乱)、開国後の米価高騰に不満を持つソウルの下層民衆もこれに加わり、閔妃派と日本公使館が襲われます。
この反乱を利用して大院君は政権を奪取したものの、宮殿から脱出した閔妃が清に救援を要請した為、清軍3000名が出動して反乱を鎮圧、大院君は捕らえられ中国に送られました。
返り咲いた閔妃派政権は、保守的傾向と清への依存を深めるように成り、一方、軍事顧問が殺害された日本も出兵し、公使館に兵士を駐屯させる権利を得ました。
◎急進開化派の動向
事件後、朝鮮は謝罪使を日本に派遣しましが、その中に金玉均(キムオクキュン)等の若手開化派官僚が含まれていました。
金玉均は1882年にも日本に視察旅行を行い、朝鮮の改革に期待を寄せる福沢諭吉の紹介で井上馨、大隈重信、渋沢栄一等と面識を得ており、今回も福沢などと接触して、日本をモデルにして一刻も早く朝鮮の近代化を図る事が必要と考えるようになりました。
帰国後、金玉均らは急進開化派として政治改革を試みますが、守旧派の抵抗で身動きがとれず焦りを募らせていました。
1884年12月4日、金玉均ら急進開化派は、クーデタを決行し、京城駐在日本公使が軍事援助を約束したのです。また清の朝鮮駐屯軍が清仏戦争の影響で3000名から1500名に減らされたことも好機と考えられました。
金玉均らは、国王の身柄を確保した上で閔妃派の政府要人を殺害し、5日には新政権樹立と改革を宣言しました。この間日本兵約150人は王宮の占拠に従事していましたが、6日に袁世凱率いる1500名の清軍が王宮に至り日本軍を攻撃すると、日本軍は小競り合いの後に金玉均ら開化派を見捨てて退去したのです。
又事件を知った民衆によって、日本公使館が焼き討ちに遭遇し、日本公使も京城から逃れました。
閔妃派の守旧派政権が復活し、事件に関わった開化派は処刑され金玉均は日本に亡命しますが、この事件を甲申政変と呼びます。
事件の翌月、日本は京城に軍隊を派遣し、自らの責任には触れず、朝鮮政府に公使館焼き討ちに対する謝罪と賠償を要求して認めさせました。
又、日清両国は朝鮮に駐屯する両軍の衝突を避ける目的で、1885年、天津条約を締結、朝鮮からの日清両国軍の撤兵、朝鮮へ派兵する場合は、相互に事前通告する事を確認しますが、いずれ清朝との戦争を不可避と考えた日本は、この後戦争準備を推進します。
◎金玉均と福沢諭吉
亡命した金玉均は日本政府にとっても利用価値はなく、小笠原の父島や、北海道に移送され罪人同様の扱いをうけました。
日本に見切りをつけた金玉均は1894年上海に渡りますが、その地で朝鮮政府から派遣された刺客に暗殺され、遺体は京城に運ばれ「大逆無道玉均」として晒され、「日本が東洋のイギリスならば、朝鮮はフランスに…」との彼の夢は、日本の軍事力を頼ったため破れたのでした。
福沢諭吉は、近代化されたアジア諸国との連帯を模索していましたが、甲申政変以後、朝鮮近代化への期待を捨て「脱亜入欧」を唱える事になります。
続く・・・
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コメント
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2012-10-17 22:46 編集
Re: No title
この時代のお話は、日本の義務教育で、殆ど触れられないか、簡単に済まされています。
2012-10-20 08:20 秋葉 奈津子 URL 編集