人類の軌跡その497:朝鮮半島②
<日清戦争と日本による朝鮮の植民地化>

1895年4月17日、下関「春帆楼(しゅんぱんろう)」に於ける条約締結
朝鮮の農民反乱に端を発した日清戦争で、日本は勝利をおさめましたが、朝鮮政府はロシアに接近して日本の排除を試みました。
日本の半島支配は、日露戦争の後に確立されます。
◎甲午農民戦争から日清戦争へ
1894年、全羅道を中心に、甲午農民戦争と呼ばれる農民反乱が勃発しました。
指導者全 準(チョンボンジュン)は、東学の指導者で、此処で東学とは19世紀末に儒教、仏教、道教を融合して成立した宗教で在り、西学=キリスト教に対抗する意味で東学と名づけられたのです。
1894年2月、全羅道古阜(コブ)郡で役人の不当な徴税に抗議して千人規模ではじまった反乱は、5月には1万人に増加、道都全州を占領するに至りました。
「悪政改革、外人追放、万民福利、逐洋斥倭(ちくようせきわ・西洋人と日本人を追い払え)」を唱え、開国以来目に見えて生活が悪化していた民衆の支持を集めます。
朝鮮政府は、これを鎮圧できず清に援軍を要請し、清は出兵すると共に天津条約に基づき日本に通告した為、日本も居留民保護を名目に朝鮮への出兵を決定しました。
侵略の足がかりに成る、日本の出兵をのぞまない朝鮮政府は、日本に撤兵を要請する一方、出兵の口実をなくすため農民反乱軍と交渉してその要求を受け入れたため、農民軍は全州を退去しました。
反乱終結を理由に、朝鮮政府は日清両軍に撤兵を要求しましたが、これを機に清と戦って朝鮮に対する支配権を確保したい日本は要求を拒否、7月末、逆に王宮を軍事制圧し親日政権を樹立し、朝鮮西海岸で清国艦隊に攻撃を開始しました(宣戦布告は一週間後)、こうして日清戦争が始まりました。
◎日本の勝利と下関条約
戦闘は日本軍の優勢のうちに展開され、9月には平壌会戦と黄海海戦で勝利し、10月には清朝領内の遼東半島、翌年1月には山東半島に侵攻、3月には澎湖島を占領しました。
1895年3月、清は降伏し、下関条約が締結、全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章でした。
内容は、
1、朝鮮の独立。
2、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲。
3、賠償金2億両などです。
此処で、朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味しました。
賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分に相当します。
◎ロシア等による下関条約への干渉と朝鮮政府
日本が清に勝利し、広大な領土を獲得したことは、ヨーロッパ列強の警戒感を招きました。
特に、中国東北部への進出を目論むロシアは、フランス・ドイツを伴い遼東半島の清朝への返還を日本に要求しまします。
此れを三国干渉と呼称し、日本はこの要求に屈して、遼東半島を清に返還しましたが、この後ロシアを仮想敵として軍備拡張を推進します。(映画にも成った「八甲田山の雪中行軍の悲劇」はこの様な背景で発生しました)
日清戦争以来、朝鮮では親日派政府が成立していましたが、閔妃は三国干渉の結果を見て、日本の勢力を排除するためにロシアへの接近を図ります。
1895年10月、これを阻止しようとした日本公使陸軍中将三浦梧楼は、深夜に日本兵と壮士を引き連れ王宮に乗り込み、閔妃を斬殺し遺体を焼却するという事件を起こします。
朝鮮人同士の事件に偽装する計画が、アメリカ人軍事教官とロシア人技師に目撃され国際問題となる一方、各地で王妃殺害に憤激した義兵(義勇軍)による反日闘争が発生します。
国王高宗はロシア公使館に移り親露派政権が誕生し、ロシアは軍事顧問、財政顧問を送り朝鮮への影響力を強めました。
因みに、日本へ召還された三浦たちは裁判で証拠不十分として無罪になっています。
1897年、高宗はロシア公使館から王宮に戻り、国号を朝鮮から大韓帝国に、称号も王から皇帝へと改め、独立国としての気概を示しましたが、国の置かれている状況を変えるものではありませんでした。
続く・・・

1895年4月17日、下関「春帆楼(しゅんぱんろう)」に於ける条約締結
朝鮮の農民反乱に端を発した日清戦争で、日本は勝利をおさめましたが、朝鮮政府はロシアに接近して日本の排除を試みました。
日本の半島支配は、日露戦争の後に確立されます。
◎甲午農民戦争から日清戦争へ
1894年、全羅道を中心に、甲午農民戦争と呼ばれる農民反乱が勃発しました。
指導者全 準(チョンボンジュン)は、東学の指導者で、此処で東学とは19世紀末に儒教、仏教、道教を融合して成立した宗教で在り、西学=キリスト教に対抗する意味で東学と名づけられたのです。
1894年2月、全羅道古阜(コブ)郡で役人の不当な徴税に抗議して千人規模ではじまった反乱は、5月には1万人に増加、道都全州を占領するに至りました。
「悪政改革、外人追放、万民福利、逐洋斥倭(ちくようせきわ・西洋人と日本人を追い払え)」を唱え、開国以来目に見えて生活が悪化していた民衆の支持を集めます。
朝鮮政府は、これを鎮圧できず清に援軍を要請し、清は出兵すると共に天津条約に基づき日本に通告した為、日本も居留民保護を名目に朝鮮への出兵を決定しました。
侵略の足がかりに成る、日本の出兵をのぞまない朝鮮政府は、日本に撤兵を要請する一方、出兵の口実をなくすため農民反乱軍と交渉してその要求を受け入れたため、農民軍は全州を退去しました。
反乱終結を理由に、朝鮮政府は日清両軍に撤兵を要求しましたが、これを機に清と戦って朝鮮に対する支配権を確保したい日本は要求を拒否、7月末、逆に王宮を軍事制圧し親日政権を樹立し、朝鮮西海岸で清国艦隊に攻撃を開始しました(宣戦布告は一週間後)、こうして日清戦争が始まりました。
◎日本の勝利と下関条約
戦闘は日本軍の優勢のうちに展開され、9月には平壌会戦と黄海海戦で勝利し、10月には清朝領内の遼東半島、翌年1月には山東半島に侵攻、3月には澎湖島を占領しました。
1895年3月、清は降伏し、下関条約が締結、全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章でした。
内容は、
1、朝鮮の独立。
2、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲。
3、賠償金2億両などです。
此処で、朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味しました。
賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分に相当します。
◎ロシア等による下関条約への干渉と朝鮮政府
日本が清に勝利し、広大な領土を獲得したことは、ヨーロッパ列強の警戒感を招きました。
特に、中国東北部への進出を目論むロシアは、フランス・ドイツを伴い遼東半島の清朝への返還を日本に要求しまします。
此れを三国干渉と呼称し、日本はこの要求に屈して、遼東半島を清に返還しましたが、この後ロシアを仮想敵として軍備拡張を推進します。(映画にも成った「八甲田山の雪中行軍の悲劇」はこの様な背景で発生しました)
日清戦争以来、朝鮮では親日派政府が成立していましたが、閔妃は三国干渉の結果を見て、日本の勢力を排除するためにロシアへの接近を図ります。
1895年10月、これを阻止しようとした日本公使陸軍中将三浦梧楼は、深夜に日本兵と壮士を引き連れ王宮に乗り込み、閔妃を斬殺し遺体を焼却するという事件を起こします。
朝鮮人同士の事件に偽装する計画が、アメリカ人軍事教官とロシア人技師に目撃され国際問題となる一方、各地で王妃殺害に憤激した義兵(義勇軍)による反日闘争が発生します。
国王高宗はロシア公使館に移り親露派政権が誕生し、ロシアは軍事顧問、財政顧問を送り朝鮮への影響力を強めました。
因みに、日本へ召還された三浦たちは裁判で証拠不十分として無罪になっています。
1897年、高宗はロシア公使館から王宮に戻り、国号を朝鮮から大韓帝国に、称号も王から皇帝へと改め、独立国としての気概を示しましたが、国の置かれている状況を変えるものではありませんでした。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント