2012/10/22

人類の軌跡その498:中国大陸

<義和団事件から日露戦争へ>

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義和団鎮圧 8カ国連合軍

 中国民衆の排外運動で在る義和団事件は、清朝の植民地化を一層進める結果となりました。
事件後、中国東北部地方への進出を目論む日露の対立は深まり、日露戦争が勃発します。

◎義和団事件

 1860年の北京条約でキリスト教の布教が自由に成り、外国人宣教師が中国奥地に入るようになると、治外法権を利用した横暴な振る舞いは、中国民衆との紛争を頻発させます。
山東省では1890年代末から大刀会や義和拳等、武術を習得した人々を中心として、宣教師や教会を襲撃する仇教(きゅうきょう・反キリスト教)運動が活発化しました。
彼らは義和団と呼ばれ、1899年頃からその参加者と規模は拡大し「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)」を唱える大規模な武装排外運動に発展、1900年には鉄道、電信の破壊闘争を行い天津と北京を占拠、北京では公使館地区を包囲しました。

 清朝政府は当初列強の要請を受け、義和団鎮圧に従事しましたが、1900年6月、運動の盛り上がりを背景に、義和団に協調し外国勢力を排除する方向に転換し、列国に宣戦布告、これに対し、日・露・英・米・仏・独・伊・墺の八カ国は共同出兵し2万の兵を送り込みました。
連合軍は7月に天津、8月には北京を占領し、清朝は降伏、徒手空拳で果敢に戦った義和団も鎮圧され、清朝は翌1901年の北京議定書で北京への外国軍の駐屯、賠償金4億5千万両等を受け入れ、半植民地化は一層進行したのです。

◎日露の対立

 義和団事件後、各国軍が撤兵した後もロシア軍のみは中国東北部に留まり、この地域を事実上占領しました。
その結果、朝鮮半島から中国東北部への勢力拡大を画策する、日本との間に緊張が高まります。
イギリスもロシアの南下を警戒しましたが、南アフリカでボーア戦争が発生していた為、極東に大軍を送ることができず、ロシアを牽制するため日本を支援して1902年日英同盟を締結、日本にとって世界最強国であるイギリスとの同盟は願ってもない事でした。

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日本帝国海軍戦艦「三笠」

◎日露戦争

 1904年、日露戦争が勃発、戦場は中国東北部であり、ロシア軍の籠もる旅順要塞の攻防戦が最初の激戦となりました。
日本軍は旅順要塞を陥落させましたが、155日間に渡る戦いで59000名もの戦死者を出し、与謝野晶子が「君死にたもうことなかれ」と歌ったのは、旅順に出陣している弟を思っての事でした。
その後、日本軍は、25万の兵力で北上し、1905年3月、奉天会戦でロシア軍本体32万と激突、激戦の末ロシア軍を退却させることに成功、5月には対馬沖の日本海海戦で、バルト海からアフリカを回航してきたロシアのバルチック艦隊(第二、第三太平洋艦隊)を撃破(ロシア海軍は38隻中19隻が沈没)、日本の優位は確定しました。

続く・・・

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