2012/10/23

人類の軌跡その499:中国大陸②

<義和団事件から日露戦争へその②>

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◎日露戦争②

 開戦前はロシアとの戦争に懐疑的だった日本国内の世論は、あいつぐ戦勝の知らせに沸き立ち、社会主義者の幸徳秋水やキリスト者の内村鑑三らわずかな反戦論を除き好戦的気分に浸っていました。
しかし、もともと後発資本主義国の日本にとって、戦争による消耗は国力の限界に近づいており、武器弾薬を調達する戦費も底をつきはじめていたのです。
事実、奉天会戦後の日本軍には、退却するロシア軍を追撃するだけの弾薬は残っておらず、20億円近い戦費の45%をイギリスとアメリカの外債に頼っていた日本にとって、これ以上の戦争継続は不可能でした。

 又、ロシアも1905年1月にペテルブルクで民衆のデモ隊に軍隊が発砲し死者を出した「血の日曜日事件」をきっかけに、専制政治に反対する労働者のストライキ、農民の蜂起や軍隊の反乱が頻発し戦争継続は困難に成りつつあったのです(ロシア第一革命)。

◎戦争終結

 1905年9月、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介により、ポーツマス条約が締結され戦争は終結しました。

内容は、以下
1、日本の韓国に対する保護権を承認。
2、遼東半島南部の租借権と南満州鉄道と沿線の利権を日本に譲渡。
3、南樺太をロシアが日本に割譲。

以上が主な内容ですが、ロシアからの賠償金支払いは無く、日本国内ではこれを不満として暴動も起こりましたが、日本のぎりぎりの勝利を反映した内容でも在りました。

◎アジア諸国への影響

 日露戦争は、植民地分割をめぐって戦われた初めての帝国主義国間戦争でしたが、ヨーロッパにアジアが勝利した戦争として、列強に侵略されているアジア諸民族を鼓舞する一面もありました。
インドでは「アジア人に対するヨーロッパ人の絶対的優位性の神話は崩れ去った。インド人も民族的自信を持つべきだ」と唱えるティラクの指導でインド国民会議派による反英運動が活発化しました。
第二次大戦後にインド首相となるネルーも「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に、大きな影響を与えた。わたしは、少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによくはなしたことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとながおなじ感激をした。」と書いています。
又、1906年のイラン立憲革命や1908年のトルコのサロニカ革命も日露戦争の影響があると云われています

 しかし、その後の韓国の植民地化と中国侵略は日本がヨーロッパ列強と同様の帝国主義国であることを示すものでした。

◎日露戦争後の韓国の抵抗と日韓併合

 1905年日露戦争で勝利をおさめた日本は韓国に第二次日韓協約締結を強制し、韓国の外交権を奪い保護国化しました。
1907年、高宗は第二次日韓協約の無効を世界に訴える為、オランダのハーグで開催されていた、第2回万国平和会議に密かに使節を派遣しましたが、日本も参加する平和会議は、韓国使節の参加を認めず、使節の1人が抗議の自殺を遂げる事件に発展しす(ハーグ密使事件)。

 日本は事件を理由に、高宗を退位させ、第三次日韓協約で内政をも監督下に置き、韓国軍を解散します。
この後、元兵士を中心に義兵闘争が活発化し、1908年には義兵と日本軍との交戦回数は1400回を数え、1909年、伊藤博文を満州鉄道のハルピン駅で暗殺した安重根(アンジュングン)も義兵でした。

 やがて、義兵も徐々に日本軍に制圧され、1910年12月22日、日韓併合条約によって韓国は日本に併合され、この夜、京城の朝鮮統監寺内正毅は「小早川加藤小西が夜にあらば今宵の月をいかに見るらん」と詠みました。
秀吉の猛将達が成し得なかった、朝鮮征服を成し遂げた事を詠んだのですが、反対に、韓国併合のニュースを聞いた石川啄木は「地図の上、朝鮮国にくろぐろと、墨をぬりつつ秋風を聞く」と詠んでいます。

続く・・・


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