2012/10/24

人類の軌跡その500:中国大陸③

<挫折した清朝の変法運動>

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 日清戦争後、光緒帝は立憲君主政等の政治改革を主張する変法派を登用し、改革に着手しました。しかし、西太后ら保守派のクーデタで改革は潰され、清朝再生の機会は永遠に失われたのです。

◎日清戦争敗北の原因

 清軍は、洋務運動により近代的な装備を保有し、特に最新鋭の軍艦を配備された北洋海軍は、日本海軍に匹敵する、戦闘能力を有していました。
その様な軍事力を保有しながら、日清戦争に敗れた理由は、直接的には政府部内の不統一と為政者の自己保身が原因でした。
日本軍と戦った清の北洋海軍と淮軍は、直隷総督(河北省長官)兼北洋大臣(外交軍事の責任者)を務めた李鴻章が、洋務運動によって作りあげた私軍とも云うべきもので、李鴻章は勝利よりも、軍を温存して権力基盤を守ることを優先したのです。
その為、ロシア等に仲介を求め、決戦を回避しつづけ、日本軍は有利に戦争を進める事を可能としたのです。
又、宮廷の実権を握る西太后は、自分の還暦記念の為、頤和園改築工事に清国海軍軍事予算を流用する始末でした。

 清朝は日本に対する2億両の賠償金支払いの為、海関税等を担保に西欧諸国に借款を求め、これをきっかけに各国は鉄道敷設権、沿線の鉱山採掘権等を清朝から獲得していきました。
又、1898年にドイツが宣教師殺害事件を発端に、山東半島膠州湾の租借を皮切りに、ロシアが旅順、大連、イギリスが威海衛、九龍半島、フランスが広州湾を租借し、鉄道敷設権を獲得した地域と合わせて排他的な勢力範囲を形成し、中国の分割が一気に進行しました。

◎政体変革の主張と光緒帝

 日清戦争の敗北により、洋務運動が国力強化に繋がらない事が明白と成り、強まる列強の圧迫のなかで、若手知識人から政体変革を求める変法運動が起こってきました。
運動の中心となった康有為、梁啓超らは、明治維新を模範として立憲君主政や議会の開設による清朝再建を目指していました。
1888年に皇帝に政治改革を求める上書をして、既に有名になっていた康有為は、1895年、科挙の会試受験で北京に滞在した際に、下関条約に反対して1200名の受験生の署名を集め抗議活動をおこない、科挙に合格してからも、康有為のグループは雑誌出版等で変法=政治改革の必要性を訴えましたが、その意見は保守派の官僚に阻まれ皇帝には届きませんでした。

 1898年、康有為らの主張は遂に光緒帝(位1875~1908)の知る処と成り、6月、光緒帝は康有為らを登用して変法を開始しました(戊戌の変法)。
科挙の改革、近代的学校制度の創設、官庁の統廃合等、康有為らの改革案が皇帝を通じて次々と発せられました。
しかし、改革案には財政的裏付けが無く、又保守派官僚が強硬に抵抗した結果、その多くは実行されず、更に西太后が変法に反対した為、多くの官僚が傍観的態度をとり、光緒帝を含む変法派は孤立していきました。

 西太后は、1861年以来、5歳で即位した同治帝(位1861~75)の生母として、また4歳で即位した光緒帝の伯母として権力を握りつづけた人物で、光緒帝が成人に達すると政権を譲りましたが、宮中に隠然たる勢力を保ち、光緒帝も西太后に逆らう事はできませんでした。
その様な状況の中で、戊戌の変法は、光緒帝がはじめて西太后の意向を無視して行った政治的決断だったのです。

続く・・・

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