2012/10/25

人類の軌跡その501:中国大陸④

<挫折した清朝の変法運動その②>

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孫 文(1866年11月12日 - 1925年3月12日)

◎西太后の反動

 保守派の西太后は改革に反対なのはもちろんの事、自分を無視して改革を断行した光緒帝を許すことができませんでした。
変法が開始された4日後には、光緒帝から高級官僚の任命権を奪い、軍隊を掌握する直隷総督兼北洋大臣に自分の側近を任命して改革に圧力を加えはじめました。
光緒帝も、保守派官僚の罷免と変法派の登用を行い抵抗したのですが、思うように改革は進展せず、西太后派による光緒帝廃位計画も検討されるなか、変法派は日清戦争後創設された近代的装備を持つ新建陸軍の指揮官袁世凱に西太后派の排除を要請しました。
袁世凱は李鴻章の後継者として頭角をあらわしてきた軍人で、1895年に変法運動に資金援助をした事も在り、最後の頼みの綱とされたのです。

 しかし、袁世凱は排除計画を西太后に告げ、西太后派は逆にクーデタを決行(戊戌の政変)、変法が始まって3ヶ月後のことでした。
光緒帝は、北京の湖南海に浮かぶ小島瀛台(えいだい)に幽閉され、康有為と梁啓超は日本に亡命し、その他の変法派のメンバーは皆処刑されたのです。

 西太后は再び政権を掌握し、光緒帝は崩御の瞬間迄、皇帝として在位したまま、幽閉生活を送ります。
1908年、光緒帝が没した翌日に、西太后は次の皇帝を指名して亡くなりました。
光緒帝は、死期を悟った西太后によって毒殺されたと云われ、彼女が指名した宣統帝(愛親覚羅溥儀・在位1908年~12年)が清朝最後の皇帝(映画ラストエンペラーのモデル)となりました。

◎変法運動の失敗が示したもの

 変法運動が清朝内の権力闘争で失敗した事は、清朝を倒さなければ中国の再生があり得ない事を若い知識人達に示す結果となり、これ以後の改革運動は反清革命運動となって展開する事になります。

◎清朝打倒をめざす革命団体

 清朝の打倒をめざす革命団体が19世紀末から結成されはじめます。
担い手となったのは留学生や華僑等、外から中国を見る機会を持った人々でした。
1905年日露戦争に刺激を受け、興中会、華興会、光復会等革命組織が結集し、東京で中国同盟会が結成されました。
中国人留学生300人がこれに参加し、後に彼等が帰国する事によって、革命運動は中国全土に広がり、これ以後、革命派による武装蜂起が中国各地で繰り返されました。

中国同盟会の指導者となったのは孫文(1866~1925)でした。
広東省の貧農の家に生まれ、小さい頃から太平天国の洪秀全にあこがれていたといいます。
12歳の時ハワイで成功していた兄のもとに渡り、西洋式の教育を受け、1894年には興中会を組織し革命運動を行なっていました。
孫文の唱える「三民主義」(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)は、中国同盟会の指導理念と成ったのです。

続く・・・
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