2012/10/27

人類の軌跡その502:中国大陸⑤

<袁世凱の台頭>

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武昌蜂起

◎清朝の改革

 日露戦争後、清朝政府は改革の必要性をようやく認識し、1905年には科挙を廃止、1908年には憲法大綱を発布し10年後の国会開設を公約しました。
しかし、早期国会開設を求める人々はこの公約に失望し、清朝が科挙に代わる人材育成を目的とした、日本に送り出した多くの留学生は、反清思想に触れて帰国しました。

◎武昌蜂起の成功と中華民国の成立

 1911年、鉄道国有化令が公布され、民間鉄道である川漢(四川~湖北)鉄道、粤漢(広東~湖北)鉄道の敷設権を国有化し、これを担保に外国から借款を得ようする政策であり、国権を外国に売り渡すものとして、成長しつつあった民族資本家層を中心に、沿線各省で猛烈な反対運動が起こり、四川省では大規模な暴動に発展しました。
10月には湖北省の武昌で湖北新軍が挙兵、革命政府を樹立し、清朝からの独立を宣言しました(武昌蜂起)。
新軍(新建陸軍)は、日清戦争後に作られた洋式陸軍で、将校には日本留学者が多く、兵士も含めて革命派が多く所属しており、湖北新軍では15000の兵のうち三分の一が革命化していたといいます。

 武昌蜂起成功が伝わると、湖南省、陜西省、江西省などに蜂起は広がり、14省で革命政府が成立し清朝からの独立を宣言しました(辛亥革命)。
1912年1月、独立した革命派諸省は南京を首都に中華民国の成立を宣言し、亡命先のアメリカから帰国した孫文が臨時大総統に就任したのです。

 武昌蜂起後、清朝政府は西太后死後失脚していた軍の実力者、袁世凱を起用し革命鎮圧を命じました。
資金難のうえ各省の足並みが揃わない南京政府には、列強の支持を受け北洋陸軍を率いる袁世凱を破る軍事力はありませんでした。
ようやく成立した革命政府を守るためには、袁世凱を味方につけるしかないと判断した孫文は、宣統帝を退位させ共和政を守るならば、臨時大総統の地位を袁世凱に譲ると約束しました。
この申し出を待っていた袁世凱は、1912年2月宣統帝を退位させ(清朝の滅亡)、3月には北京で臨時大総統に就任しました。

 このような経過で大総統となった袁世凱には、革命や三民主義への共感はなく、あるのは権力欲だけでした。
1912年、中国最初の選挙で中国同盟会を母体として結成された国民党が圧勝すると、袁世凱はこれを弾圧し、結果として国民党の指導者宋教仁は暗殺され、1913年各地で反袁反乱(第二革命)が起きましたが失敗に終わり、孫文は再び亡命します。
袁世凱は、翌年には国会を停止し独裁を強化し、1916年には帝位に就きますが、これは時代錯誤として内外から強い反発を受け(第三革命)、帝政を撤回したのち病死しました。
袁世凱死後、彼の部下の将軍達が軍閥として地方割拠し、中華民国とは名ばかりの分裂状態となり、列強は各軍閥と結びつきながら利権を獲得して行ったのです。

続く・・・
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こんばんは
29日のご挨拶です♪
いいお天気の週初めを迎えました。
週末がお天気不安定で週初めは快晴ってのも皮肉なもんですね。