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2012/10/30

人類の軌跡その504:第一次世界大戦

<第一次世界大戦のはじまり>

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 バルカン半島で発生したサライェボ事件は、三国協商と三国同盟の戦争に発展し、第一次大戦が始まりました。
短期決戦を目論んだドイツの作戦は挫折し、戦争は長期化します。

◎両陣営に分かれる西欧列強

 19世紀末、急速に工業化を遂げたドイツが、植民地獲得に乗り出した事を警戒したイギリス・フランス・ロシアは露仏同盟(1891)、英仏協商(1904)、英露協商(1907)によって結ばれ、三国協商と呼称される枠組みが成立しました。

一方ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアとともに三国同盟を締結しており、オーストリアはバルカン半島への領土拡大を狙い、汎・スラブ主義を掲げてバルカン半島進出を画策するロシアと対立していました。

◎バルカン半島におけるオーストリアとロシアの対立

 20世紀初頭のバルカン半島では、オスマン帝国の衰退に伴って紛争が相次ぎ、1908年、オスマン帝国でミドハト憲法の復活を求める軍人達の結社「青年トルコ」によるサロニカ革命が起きると、その混乱に乗じて、自治国のブルガリアが独立を宣言し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。
セルビア人住民の多いこの地域の合併を望んでいたセルビアは、ロシアを後ろ盾にオーストリアと激しく対立したのです。

 1912年にはロシアの後押しで、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアはバルカン同盟を締結してオスマン帝国と戦い(第一次バルカン戦争)、イスタンブールを除くバルカン半島の全領土を奪取したのですが、1913年、その領土の分配をめぐって、ブルガリアと他のバルカン諸国の間に戦争が起き(第二次バルカン戦争)、結果敗れたブルガリアは、大幅な領土を喪失したのです。
この後、ブルガリアはロシアから離れ急速にオーストリアに接近しました。

 こうして、ロシアとオーストリアの対立を背景に小国が分立するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれる紛争地帯となっていました。

◎サライェボ事件

 1914年6月28日、軍事演習観閲の為ボスニアの州都サライェボを訪れた、オーストリア皇太子夫妻が、自動車で市内を移動中に暗殺されました。
犯人がボスニア出身のセルビア人学生だったため、オーストリア政府は、セルビア政府の陰謀としてその責任を追及し、7月28日、セルビアに対して宣戦布告、ドイツはオーストリアとセルビアの戦争が三国同盟と三国協商の戦いに発展することを予測したうえで、オーストリアの宣戦布告を事前に認め、短期間のうちに勝利をおさめて、ドイツの国力にふさわしい位置をヨーロッパ列国に認めさせようと考えていたのでした。

続く・・・

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コメント

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No title

こんばんは☆
31日のご挨拶です♪
また冷え込みが厳しくなるようですね。そろそろ紅葉も見ごろを迎えるのではないでしょうか。
今月も大変お世話になりました。