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2012/11/05

人類の軌跡その508:第一次世界大戦⑤

<ロシア革命>

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 最も遅れた帝国主義国ロシアは総力戦に耐えきれず、三月革命によって帝政が崩壊し、十一月革命によって社会主義のソヴィエト政権が誕生し、大戦から撤退しました。

◎後進的帝国主義国ロシア

 ロシアは帝国主義諸国の中で、政治的にも経済的にも最も遅れた国でした。
1905年、日露戦争による国民生活の悪化によって第一次ロシア革命が発生、この時に初めて議会が開設されましたが、それ以後も専制政治(ツァーリズム)は続いていました。

◎三月革命

 第一次大戦が長期化し総力戦の様相を見せはじめると、厭戦気分が蔓延し、輸送は停滞し、食糧不足と物価高騰により国民生活は窮乏し社会不安は増大しました。
1917年3月(新暦、ロシア暦2月、以下新暦使用)首都ペテログラードで20万人規模の反政府デモが連日発生すると、首都防衛軍もこれに加わり無政府状態と成ります。
混乱を収拾する為に皇帝ニコライ2世は退位し、弟ミハイルに譲位しようとしましたが、ミハイルがこれを拒否したためにロマノフ朝は崩壊しました(三月革命)。
 
 国会臨時委員会を基礎に、新たに成立した臨時政府は、戦争の継続と普通選挙による議会召集を約束しました。
産業資本家層に支持され、穏健な自由主義的立場に立ち、戦争継続を掲げる臨時政府の成立を連合国は歓迎しましたが、一方、臨時政府とは別に各地にソヴィエトが組織されます。

ソヴィエトは「評議会」と訳しますが、職域や地域等で民衆が作る政治組織で在り、1905年の第一革命の時の経験にならって再び組織されたのです。
ペトログラードに成立した労働者・兵士ソヴィエトは労働者と兵士の代表によって構成され、その決定は労働者や兵士に大きな影響力を持ちました。
3月14日の「命令第一号」では兵士に対してソヴィエトの指令に従う事を命じています。

 ソヴィエトも事実上の政府で在り、ロシアには二つの政府が成立する二重権力状態が現出したのでした。
民衆は臨時政府の戦争継続方針には不満でしたが、ソヴィエトに強い影響力を持っていた社会主義政党の社会革命党とメンシェヴィキは、祖国防衛の立場から臨時政府と戦争継続を支持しましたが、なお政治状況は流動的でした。

◎レーニンの帰国とソヴィエトの掌握

 1917年4月、戦争反対を唱えていた社会主義政党ボルシェヴィキの指導者レーニンが、亡命先のスイスから封印列車でロシアに帰国しました。
ドイツ政府はロシアの混乱が増す事を期待して、レーニンの乗る列車のドイツ通過を許可しましたが、ドイツで途中下車して革命運動を行う事が無い様に列車に封印をしたのでした。
 帰国したレーニンは「四月テーゼ」を発表し、戦争の即時停止と、社会主義革命に向けて「すべての権力をソヴィエトへ」集中し臨時政府を支持しない事を訴えました。
戦争停止の訴えは多くの支持を獲得し、ボルシェヴィキは急速に勢力を伸ばし、これに対して7月、臨時政府はボリシェヴィキを弾圧し、一方で労働者の支持を得る為に社会革命党のケレンスキーを首相に迎え、多くの社会主義者を入閣させたうえで、戦争を継続しました。

 ところが、9月に軍の最高司令官コルニーロフ将軍が反革命クーデターを企て、首都に進撃すると臨時政府はボルシェヴィキとソヴィエトの協力でようやくこれを撃退した為、ボルシェヴィキは再び勢力を盛り返し、ペトログラードとモスクワのソヴィエトで主導権を掌握したのです。

◎世界初の社会主義革命十一月革命

11月、レーニンの指導でボリシェヴィキは武装蜂起し、臨時政府を打倒してソヴィエト政権を樹立(十一月革命)、世界初の社会主義政権の誕生でした。
政府成立の翌日にソヴィエト政府は、「平和に関する布告」で全交戦国に無併合・無賠償・民族自決による即時講和を訴え、「土地に関する布告」で土地の私有権廃止を宣言しました。

 1918年1月、ボリシェヴィキは憲法制定議会を解散し一党独裁を開始、3月には共産党と改称し1919年に世界革命の指導部としてコミンテルンを創設し、世界各国の革命運動の組織と援助を開始したのです。

続く・・・
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コメント

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こんばんは。
7日のご挨拶です♪
今日は立冬ですね。お天気には恵まれましたが、そろそろ本格的に冬の準備をしなければいけませんね。