人類の軌跡その510:第一次世界大戦後のヨーロッパ・アメリカ②
<第一次世界大戦の終焉②>

スパルタクス団の蜂起・ベルリン1919年
◎ドイツ・ワイマール共和国の成立と混乱
ドイツでは1919年ワイマール憲法が制定され、社会民主党のエーベルトを初代大統領として、いわゆるワイマール共和国が発足しました。
ワイマール憲法は男女普通選挙、団結権や労働者の経営参加権を認め、当時最も先進的民主的憲法でしたが、敗戦直後から不安定な政情は続き、ロシア革命の影響をうけ、1919年1月ベルリンで社会主義政権樹立をめざすスパルタクス団の蜂起がおこります。
この蜂起は鎮圧され、革命運動は退潮するのですが、1920年にはヴェルサイユ条約で決まった兵力削減に不満を持つ軍部がクーデタを起こしベルリンを占拠(カップ一揆)、結果ベルリン市民のゼネストによる抵抗でクーデタは失敗しましたが、ヴェルサイユ条約に反対する旧軍人や右翼の活動は以後も続きました。
失敗に終わりましたがヒトラーが政権奪取をめざしたミュンヘン一揆(1923)もその一つで、彼ら右翼勢力は、ドイツ革命が起きなければ、先の大戦でドイツ軍は勝利したはずだと考えていたのです。
◎経済崩壊を招いたフランスのルール占領とドイツの再建
1923年、ドイツの賠償金支払いが不能になると、フランスとベルギーがドイツ最大の工業地帯ルール地方を占領(~25年)、これに対して、ドイツ政府は「消極的抵抗」を呼びかけ、ストライキによって生産が停止した為、フランスは利益を得る事が不可能に成った反面、ドイツ経済も大打撃をうけ、インフレが一気に進行しマルクの価値が戦中の1兆分の1にまで下落、市民生活は混乱し、ドイツ共産党による武装蜂起が計画され、ヒトラーのミュンヘン一揆が起き、社会不安は増しました。
この時、新たに首相に就任したシュトレーゼマンは、不動産と商工業資産を担保にした新紙幣レンテンマルクを発行することによって、超インフレを奇跡的に終息させ、更に1924年ドイツの賠償金支払いを可能にする為の合衆国の提案、ドーズ案が成立しました。
合衆国がドイツに多額の借款を与え、ドイツはこれによって賠償金の支払いと経済復興を軌道に乗せる事が可能と成りました。
◎合衆国の資金に支えられたヨーロッパの安定
外相となったシュトレーゼマンは協調外交を展開し、英仏等と集団安全保障を定めた1925年のロカルノ条約と翌26年の国際連盟加入で国際社会に復帰し、賠償金が順調に支払われはじめた事と相まって、ヨーロッパの政情は安定期を迎えました。
しかしこの安定は、ドイツに投下されたアメリカ資本に支えられたものでした。
◎大戦後のイタリアの政情とファシストの横行
大戦後、思惑どおりに領土を獲得できなかったイタリアでは、右翼的民族主義運動が盛り上がると同時に、インフレや失業の増大の中で革命運動や労働運動、貧農雇農による土地分配運動が活発化します。
社会党とカトリック系の人民党に挟まれて、自由主義勢力による政府は指導力を発揮できず不安定な政局が続いていました。
1919年国粋主義者で詩人のダヌンツィオは義勇軍を率いて、パリ講和会議で獲得できなかった港市フィウメを占領し、大戦中に社会主義から国家主義に転身した新聞記者ムッソリーニは、「戦闘ファッシ」を結成しファシスト運動を開始します。
一方で、社会主義革命をめざす社会党は1919年の総選挙で、議席の3分の1を占め第一党となり、1920年夏には北イタリアで50万人の労働者が工場を占拠し自主管理を行い、革命前夜の様相を呈しましたが、政府の調停によって労働争議が終息すると、社会党の分裂も発生し、社会主義運動は徐々に下火になっていきます。
20年秋からファシストによるテロが横行しはじめ、黒シャツ隊と呼ばれたテロ部隊は、社会党が政権を握る地方自治体に拳銃や棍棒を持ってトラックで乗り付け、暴力で町を制圧し、労働組合や農民組合の事務所や指導者を襲い、最後に市長に辞職を迫りました。
抵抗した場合は家族を誘拐し、更には本人を殺害する事態に発展する事も発生し、この様な剥き出しの暴力で地方の支配権を握る「懲罰遠征」は参加者を増やしながら活動範囲を広げていきました。
地主や資本家はこの運動を支援し、警察もファシストの暴力行為を黙認していたのです。
続く・・・

スパルタクス団の蜂起・ベルリン1919年
◎ドイツ・ワイマール共和国の成立と混乱
ドイツでは1919年ワイマール憲法が制定され、社会民主党のエーベルトを初代大統領として、いわゆるワイマール共和国が発足しました。
ワイマール憲法は男女普通選挙、団結権や労働者の経営参加権を認め、当時最も先進的民主的憲法でしたが、敗戦直後から不安定な政情は続き、ロシア革命の影響をうけ、1919年1月ベルリンで社会主義政権樹立をめざすスパルタクス団の蜂起がおこります。
この蜂起は鎮圧され、革命運動は退潮するのですが、1920年にはヴェルサイユ条約で決まった兵力削減に不満を持つ軍部がクーデタを起こしベルリンを占拠(カップ一揆)、結果ベルリン市民のゼネストによる抵抗でクーデタは失敗しましたが、ヴェルサイユ条約に反対する旧軍人や右翼の活動は以後も続きました。
失敗に終わりましたがヒトラーが政権奪取をめざしたミュンヘン一揆(1923)もその一つで、彼ら右翼勢力は、ドイツ革命が起きなければ、先の大戦でドイツ軍は勝利したはずだと考えていたのです。
◎経済崩壊を招いたフランスのルール占領とドイツの再建
1923年、ドイツの賠償金支払いが不能になると、フランスとベルギーがドイツ最大の工業地帯ルール地方を占領(~25年)、これに対して、ドイツ政府は「消極的抵抗」を呼びかけ、ストライキによって生産が停止した為、フランスは利益を得る事が不可能に成った反面、ドイツ経済も大打撃をうけ、インフレが一気に進行しマルクの価値が戦中の1兆分の1にまで下落、市民生活は混乱し、ドイツ共産党による武装蜂起が計画され、ヒトラーのミュンヘン一揆が起き、社会不安は増しました。
この時、新たに首相に就任したシュトレーゼマンは、不動産と商工業資産を担保にした新紙幣レンテンマルクを発行することによって、超インフレを奇跡的に終息させ、更に1924年ドイツの賠償金支払いを可能にする為の合衆国の提案、ドーズ案が成立しました。
合衆国がドイツに多額の借款を与え、ドイツはこれによって賠償金の支払いと経済復興を軌道に乗せる事が可能と成りました。
◎合衆国の資金に支えられたヨーロッパの安定
外相となったシュトレーゼマンは協調外交を展開し、英仏等と集団安全保障を定めた1925年のロカルノ条約と翌26年の国際連盟加入で国際社会に復帰し、賠償金が順調に支払われはじめた事と相まって、ヨーロッパの政情は安定期を迎えました。
しかしこの安定は、ドイツに投下されたアメリカ資本に支えられたものでした。
◎大戦後のイタリアの政情とファシストの横行
大戦後、思惑どおりに領土を獲得できなかったイタリアでは、右翼的民族主義運動が盛り上がると同時に、インフレや失業の増大の中で革命運動や労働運動、貧農雇農による土地分配運動が活発化します。
社会党とカトリック系の人民党に挟まれて、自由主義勢力による政府は指導力を発揮できず不安定な政局が続いていました。
1919年国粋主義者で詩人のダヌンツィオは義勇軍を率いて、パリ講和会議で獲得できなかった港市フィウメを占領し、大戦中に社会主義から国家主義に転身した新聞記者ムッソリーニは、「戦闘ファッシ」を結成しファシスト運動を開始します。
一方で、社会主義革命をめざす社会党は1919年の総選挙で、議席の3分の1を占め第一党となり、1920年夏には北イタリアで50万人の労働者が工場を占拠し自主管理を行い、革命前夜の様相を呈しましたが、政府の調停によって労働争議が終息すると、社会党の分裂も発生し、社会主義運動は徐々に下火になっていきます。
20年秋からファシストによるテロが横行しはじめ、黒シャツ隊と呼ばれたテロ部隊は、社会党が政権を握る地方自治体に拳銃や棍棒を持ってトラックで乗り付け、暴力で町を制圧し、労働組合や農民組合の事務所や指導者を襲い、最後に市長に辞職を迫りました。
抵抗した場合は家族を誘拐し、更には本人を殺害する事態に発展する事も発生し、この様な剥き出しの暴力で地方の支配権を握る「懲罰遠征」は参加者を増やしながら活動範囲を広げていきました。
地主や資本家はこの運動を支援し、警察もファシストの暴力行為を黙認していたのです。
続く・・・
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コメント
No title
今日もお天気ぐずつくようですね。
気温もかなり下がってきていますので、ご自愛下さいね。
2012-11-13 12:16 ママいっこ。 URL 編集