人類の軌跡その512:第一次世界大戦後のヨーロッパ・アメリカ④
<第一次世界大戦の終焉④>

◎「新経済政策」
1922年、ソヴィエト政府はソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の樹立を宣言しますが、その前年1921年には「戦時共産主義」を停止し、「新経済政策(ネップ)」を採用、生産回復を図るために自由市場を復活させ、小農や私企業の経営を認めました。
これは資本主義的経済方式を導入したものでした。
ソヴィエト政府成立直後のボリシェヴィキ指導者は、経済発展の遅れたロシア一国で社会主義を建設するのは不可能であり、進んだ西ヨーロッパでも社会主義革命が起きる事が必要だと考えていました。しかし、最も可能性の高かったドイツでも社会主義革命はおきず、西ヨーロッパ全体で革命運動が退潮すると、ロシアは一国だけで社会主義建設をおこなわざるをえませんでした。
「新経済政策」はその一つの試みであり、資本主義諸国から見ると、ソ連が以前ほど危険な存在ではなくなった事を意味し、まず、敗戦国として孤立していたドイツが1922年に最初にソ連を承認すると、1924年には英・仏・伊、25年には日本が承認します。(合衆国は1933年に承認し、翌34年に国際連盟に加盟)。
◎レーニンの死とスターリンの権力掌握
1924年、ソ連と共産党の指導者であったレーニンが死去すると、党指導部内で後継者争いが始まり、皮肉な事にレーニンが遺書で「粗暴すぎる」から解任する様に求めていた、党書記長スターリンが、実務を握る立場を利用してライバルたちを失脚させていきます。
レーニンの後継者と目されていたトロツキーの「世界革命論(永続革命論)」に対してスターリンは「一国社会主義論」を唱え、路線論争の装いをとりながら権力闘争が展開され、権力闘争に敗れたトロツキーは1927年に国外追放となり、以後スターリンは独裁体制を強固なものにして行きます。
◎第一次五カ年計画
1928年にはスターリンの指導により、社会主義計画経済である第一次五カ年計画が開始され、コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)による農業の集団化がすすめられ、農産物の飢餓輸出による犠牲のうえに、重工業が建設されて行ったのです。
続く・・・

◎「新経済政策」
1922年、ソヴィエト政府はソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の樹立を宣言しますが、その前年1921年には「戦時共産主義」を停止し、「新経済政策(ネップ)」を採用、生産回復を図るために自由市場を復活させ、小農や私企業の経営を認めました。
これは資本主義的経済方式を導入したものでした。
ソヴィエト政府成立直後のボリシェヴィキ指導者は、経済発展の遅れたロシア一国で社会主義を建設するのは不可能であり、進んだ西ヨーロッパでも社会主義革命が起きる事が必要だと考えていました。しかし、最も可能性の高かったドイツでも社会主義革命はおきず、西ヨーロッパ全体で革命運動が退潮すると、ロシアは一国だけで社会主義建設をおこなわざるをえませんでした。
「新経済政策」はその一つの試みであり、資本主義諸国から見ると、ソ連が以前ほど危険な存在ではなくなった事を意味し、まず、敗戦国として孤立していたドイツが1922年に最初にソ連を承認すると、1924年には英・仏・伊、25年には日本が承認します。(合衆国は1933年に承認し、翌34年に国際連盟に加盟)。
◎レーニンの死とスターリンの権力掌握
1924年、ソ連と共産党の指導者であったレーニンが死去すると、党指導部内で後継者争いが始まり、皮肉な事にレーニンが遺書で「粗暴すぎる」から解任する様に求めていた、党書記長スターリンが、実務を握る立場を利用してライバルたちを失脚させていきます。
レーニンの後継者と目されていたトロツキーの「世界革命論(永続革命論)」に対してスターリンは「一国社会主義論」を唱え、路線論争の装いをとりながら権力闘争が展開され、権力闘争に敗れたトロツキーは1927年に国外追放となり、以後スターリンは独裁体制を強固なものにして行きます。
◎第一次五カ年計画
1928年にはスターリンの指導により、社会主義計画経済である第一次五カ年計画が開始され、コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)による農業の集団化がすすめられ、農産物の飢餓輸出による犠牲のうえに、重工業が建設されて行ったのです。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
こんばんは
なにかをきっかけに、戦争に走ってしまう危険性をはらんでいたのも良くわかる気がします。
2012-11-14 23:04 kopanda06 URL 編集