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2012/11/15

人類の軌跡その513:オスマン・トルコ帝国の崩壊

<独立を回復したトルコとアラブ地域の再編>

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共和国建国10周年記念式典

 オスマン帝国を滅ぼしたケマル・パシャのトルコ新政府は、連合国と条約を結び直し独立を回復し、イラク、トランスヨルダンでは形式的なアラブの独立がおこなわれました。

◎敗戦後のトルコ(オスマン帝国)

 オスマン帝国は親ドイツ政策をとり、同盟国として参戦し敗北しました。
1918年の休戦条約で、イスタンブールは連合国に占領されシリア、パレスティナ等アラブ人の住む地域だけでなく、トルコ人住民が多数を占めるトルコの本土であるアナトリア地方も分割される危機に陥り、自己保身に奔走した皇帝は、連合国の傀儡同然でした。

◎ケマル・パシャによるアンカラ政府の樹立

 1919年5月には、領土拡大を目指すギリシア軍がイギリスの支持を受け、トルコ第二の港湾都市イズミルとその周辺を占領し住民虐殺と云う蛮行に走ります。
イスタンブールの皇帝政府は如何なる対応も行う事は無く、これに対して抵抗を組織したのが、第一次大戦でダーダネルス海峡突破を試みた連合軍をガリポリの戦いで破った、国民的英雄ケマル・パシャでした。

 ケマルはアナトリアの中央部の都市シバスで「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を結成し領土保全を国民に訴えます。
1920年4月にはアンカラで、イスタンブールから脱出した帝国議員も含むトルコ大国民議会を開催してアンカラ政府を樹立、ケマルはその首班に就任し、この結果イスタンブールとふたつの政府が並立する事になりました。

◎外国軍の撤退とオスマン帝国の滅亡

 イスタンブール政府は、8月に連合国との講和条約である、セーヴル条約を締結しますが、その屈辱的な内容に不満を持つトルコ国民はアンカラ政府に結集し、1921年には反帝国主義運動を支援するロシア・ソヴィエト政府から軍事援助を受け、アンカラ政府軍は21年8月には内陸部に侵攻してきたギリシア軍をサカリア川で撃破、翌22年にはギリシア軍を駆逐し、イズミル地方の主権を回復しました。
それ以前に、フランス、イタリアのトルコ進駐軍はアンカラ政府との徹底対決を避け撤退しており、イギリスも本国の世論に押されアンカラ政府軍のイスタンブール入城を武力で阻止する事は不可能であり、ケマルは22年皇帝メフメト6世を退位させ、此処にオスマン帝国は滅亡したのです。
但し、オスマン皇帝は世俗の支配者スルタンであると同時に、全ムスリムの指導者カリフも兼ねており、廃止されたのはスルタン制のみ為、メフメト6世亡命後はその甥が宗教的権威のみを持つカリフ位に就任しました。

◎独立

 唯一の政府となったアンカラ政府はセーヴル条約を破棄し、改めて連合国と1923年ローザンヌ条約を締結、領土は保全され治外法権は廃止され財政管理権も取り戻しました。
敗戦によって国中が疲弊していたにも関わらず、国民の力を結集したアンカラ政府はオスマン帝国が100年にわたって奪われつづけてきた独立を勝ち取ったのです。

 アンカラ政府は、10月トルコ共和国成立を宣言し、ケマル・パシャが初代大統領に就任、これがトルコ革命です。

◎脱イスラム改革

 大統領ケマル・パシャは、脱イスラム化政策で世界の注目を集めました。
1924年にはカリフ制を廃止、マドラサ(イスラム法学校)とイスラム法廷を閉鎖、28年にはイスラムを国教と定めた憲法の条文を削除し、イスラム世界で初めて政教分離を実現、そのほかに女性のベール着用禁止や、トルコ語のアラビア文字表記をローマ字表記改める文字改革など一連の改革をおこない、近代化を進めました。

 ケマルは独裁政治家でしたが、1934年には大国民議会からアタチュルク(トルコの父)という姓を贈られ、現在でもトルコ国民に敬愛されています。

続く・・・

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