2012/11/16

人類の軌跡その514:インドの民族運動

<高揚するインドの民族運動独立>

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 第一次大戦後、熱望していた自治を与えられなかったインドは、国民会議派のガンディーの指導で非暴力・不服従運動を展開しました。

◎インド国民会議派によるインド民族主義の高揚

 1905年、インドでは日露戦争で日本が勝利した影響で、民族運動が盛り上がり、インド総督カーゾンはこれを抑える為、ベンガル分割令を発令しました。
反英闘争の盛んなベンガル地方を、ムスリムの多い東とヒンドゥー教徒の多い西に分割する事で民族運動の弱体化を狙ったものでした。
これに対して猛烈な抗議行動が展開され、1906年インド国民会議派のカルカッタ大会では「スワデーシー(国産品愛用)」「スワラージ(自治)」「イギリス商品のボイコット」「民族教育」の四大綱領が採択されました。

 インド国民会議は、1885年にイギリスがインド統治の円滑化の為、イギリスの高等教育を受けたインド人を集めた組織でした。
当初、インド国民会議に参加した弁護士、学者、ジャーナリスト等は、イギリスに協力する事でインド人の地位向上を図ろうと考えていましたが、徐々に反英色を強め独立運動を指導するようになったのでした。

 一方、ヒンドゥー教徒が主導するインド国民会議に対して、少数派のムスリムはイギリスの支援を受け1906年インド=ムスリム連盟を結成しましたが、これにはインド人同士を宗教で対立させる事を狙った、イギリスの分断統治策でもありました。

◎イギリスの自治付与約束

 第一次大戦が始まると、イギリスは戦後の自治と引換に、インドに兵力・戦費の負担を求めす。
ところが、戦後1919年に制定されたインド統治法は形式的な自治しか認めず、同時に制定されたローラット法は、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、政治犯の上告不可と云う民族運動弾圧法そのもので在り、抗議行動が全土に広まりました。

◎ガンディーの指導

 この時「非暴力・不服従」運動を掲げて国民会議派の指導者として登場したのがガンディーでした。ガンディーは、非暴力・不服従の抵抗を「積極的な非暴力には真理と勇気が含まれる」として「サティヤーグラハ(真実をつかむ)運動」と名付けました。

 イギリスは農民や下層労働者も参加したサティヤーグラハ運動にインド大反乱の再現を恐れ、パンジャブ地方のアムリットサール市では、2万人が集まった集会にイギリス軍が発砲し375人(国民会議派調査では1200人)が虐殺される事件が起き、反英運動はさらに勢いを増し、国民会議派とムスリム連盟の協力関係も築かれました。
全国を遊説するガンディーを、民衆は熱狂して迎え、洋服を着た他の国民会議派の指導者とは全く異なり、国産木綿の粗末なインド服をまとい自ら糸を紡ぐガンディーの姿は、「スワデーシー(国産品愛用)」と「イギリス商品のボイコット」を身をもって示すものでした。
各地で人々はイギリス製の綿製品を積み上げて火を放ち、「非暴力」とは言いながらも運動の高揚にともなって流血事件はしばしば発生します。
1922年2月ある町で警官22名が群衆に殺される事件が起きると、ガンディーは統制の取れない運動の中止を命じ、その後ガンディーは逮捕投獄されます。

続く・・・

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コメント

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No title

こんばんは。
いつもコメントありがとうございます^^
天気予報は、最近よく当たりますね。降り始めから晴れ間が覗く時間帯まで当たってました。明日は晴れるようですので、ジロくんの散歩もゆっくり出来そうですね。