2012/11/17

人類の軌跡その515:インドの民族運動②

<高揚するインドの民族運動独立②>

salt_march_convert_20121117215221.jpg
「塩の行進」

◎「塩の行進」

 一時沈滞していた運動は、1929年のインド国民会議派ラホール大会で「プールナ・スラワージ(完全な独立)」の方針を決定し、ふたたび高揚期を迎えました。
運動に復帰したガンディーは1930年イギリスに抵抗する象徴的な行動として「塩の行進」を実行します。
「製塩禁止法」に反対して、自宅のあるアフマダバードから約380キロ24日かけてダンディー海岸まで行進し、自ら塩を作ったのです。
ガンディーと78名の弟子が歩く沿道には人々が群がり、一行は数千人の規模に膨らんでいきました。
「塩の行進」では、ガンディーを含め6万人以上が逮捕投獄され、この運動に注目していた国際社会に、イギリスの圧政を印象づける事になりました。
「塩の行進」に刺激され全土で製塩運動やボイコット運動等、非暴力・不服従運動が広まり、第二次サティヤーグラハ運動がはじまりました。

◎英印円卓会議

 イギリスはインド独立運動を懐柔する為、インド各界の代表者をロンドンに招き円卓会議を1930年から32年迄に3回開催しました。
円卓会議とは座席に上座下座の区別を作らず対等に話し合う形式で、この為に釈放されたガンディーも、国民会議派の代表として独立の条件を獲得する為、第二回会議に出席しましたが、会議は成果無く終わります。

 1935年イギリスは新インド統治法を発表し、各州の地方自治は認めるものの、インドの自治や独立とは程遠い内容に国民会議派の指導者の一人ネルーは「これは奴隷憲章だ」と反発したのです。

※ガンディーについて

 ガンディー(1869~1948)は、イギリスに留学し弁護士資格を取得した後、1893年インド人企業の顧問弁護士として人種差別の激しい南アフリカに渡りました。
南アフリカのダーバンについて一週間後、一等客車に乗っていたガンディーは、後から来た白人の為に席を譲り貨物車に移るよう車掌に命令されました。
ガンディーが一等の切符を示して拒否すると、車掌はガンディーをプラットホームに放り出してしまいました。
ガンディーは寒さと屈辱に震えながらプラットホームで一夜を明かします。
「権利の為に戦うか、それともインドに帰るべきか」と考えながら。
「義務を果たさずに逃げるのは卑怯だ」と云うのが彼の結論で、こうして1915年までの22年間、南アフリカでインド人の権利擁護運動を続け、そのなかでサティヤーグラハ運動を確立していきます。

 粗末な衣服、菜食主義、妻帯しながら禁欲生活を貫く等、独特のスタイルは留学経験のある知識階層としては特殊なものでした。
又、闘争の最高潮期に、流血事件を理由に闘争中止を命じるガンディーの姿勢は、ネルー等、他の国民会議派指導者の反発を招きましたが、一種宗教的ともいえる彼の思想と行動は、多くの民衆を惹きつけた

続く・・・

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

No title

こんにちは。
いつもありがとうございます。
今年も残すところあと少しですね。娘の受験もカウントダウン
はいりました。我が家はそれまでは、はめを外さず大人しく過ごす予定です。
今週も宜しくお願いします。