2012/11/19

人類の軌跡その516:第一次世界大戦後の朝鮮・中国

<第一次大戦と朝鮮・中国>

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 第一次大戦後の朝鮮では、民族自決に期待して大規模な三・一独立運動が湧き起こり、中国でも、大戦中の日本による二十一カ条の要求に対して、五・四運動が起こります。

◎ウィルソンの民族自決

 1918年、米大統領ウィルソンが「十四カ条の平和原則」を発表すると、自由に活動のできる海外在住の朝鮮人から「民族自決」に期待した運動がおこりました。
アメリカにいた李承晩(イスンマン)は、ウィルソンに韓国独立を要望し、上海の新韓青年党呂運亮(ロウンヒョン)はパリ講和会議への代表派遣を計画しました。
これらの動きが日本留学生に伝わると、1919年2月東京神田朝鮮YMCA会館に600名の留学生が集まり「独立宣言大会」が開かれ、朝鮮半島でもこれに呼応して、宗教団体等の指導者33名によって独立宣言が起草され、前月(1月)に死去した元国王高宗の葬儀にあわせて、ソウルの中心パゴダ公園で独立宣言を読み上げることになりました。

◎三・一独立運動
 
 3月1日、パゴダ公園に集まった青年学生を中心とする5000名は、独立宣言を読み上げた後、市街に出て「大韓独立万歳」と叫びながらデモ行進を行い、隊列はたちまち数万の規模に膨れあがりました。
この三・一独立運動は朝鮮全土218の府郡のうち211カ所に広がり、示威運動の回数は1200回をこえ、参加者はのべ110万人に達したのです。

◎日本の弾圧
 
 これに対して、朝鮮総督府は朝鮮常駐の二個師団に、日本本国からの援軍を加えて、徹底的な武力弾圧を実行し、水原郡堤岩里(チエアムリ)では村民全員を焼き殺す虐殺事件の現場がアメリカ人宣教師たちに目撃されています。
三・一独立運動での朝鮮人の死者約7000人、負傷者約4万5000人、逮捕者約5万人に及びました。

 運動は鎮圧されましたが、総督府はこれを契機に統治方針を従来の武断政治から文治政治に切り替え、具体的には憲兵警察を普通警察にかえ、日本人官吏教員の帯剣を廃止する等、示威的武力支配を改め、出版・集会・結社の自由を一部許可する様に成ったのです。

続く・・・

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コメント

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こんばんは

戦争というのは、ひどいことが平気でできるものです。
昨今の暴動騒ぎを見ていても、そう思います。

No title

私も北九州よ
福銀で受付してるよ
よろしくね