人類の軌跡その517:第一次世界大戦後の朝鮮・中国②
<第一次大戦と朝鮮・中国②>

魯 迅 1881年9月25日 - 1936年10月19日
◎日本による中国に対する干渉強化
日本は、第一次大戦中の1915年、ヨーロッパ列強が中国から後退した間隙をついて、袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけました。
その内容は、ドイツが租借していた山東省膠州湾などの権益の日本への譲渡、中国東北地方での権利拡大、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置く事等、中国の主権を侵害するものでした。
袁世凱政府が最終的にこの要求を受けいれると、民族的危機意識が中国民衆に広がり、袁世凱死後も、その後継者段棋瑞が利権と引き替えに、日本から多額の援助を得る等、軍閥による政府の私物化は続いたのです。
◎文学革命
一方で、1910年代後半から、新中国・新社会をめざす文化・思想運動が始まりました。
文学革命とも新文化運動とも呼ばれるこの運動の中心となったのは、陳独秀が発行した雑誌『新青年』でした。
「民主主義と科学」を標榜し、封建制度や儒教思想、特に個人を縛り付ける伝統的家族制度を批判する論陣を張り、青年層に大きな影響を与え、同誌を舞台に、胡適による白話文学運動(文語だった書き言葉を口語に変えることを提唱)が展開され、魯迅は口語文学の傑作『狂人日記』『阿Q正伝』等を発表し、又、李大釗はマルクス主義を初めて中国に紹介しました。
やがて彼等を教授陣として迎えた北京大学は、文学革命の拠点と成って行きました。
◎中国全土に広がった五・四運動
1919年、第一次大戦が終わり、パリ講和会議が始まると、中国代表は「民族自決」に基づいて、日本の二十一カ条要求の破棄と、山東省の権益返還を要求しました。
しかし、中国政府の要求は拒否され、そのニュースが伝えられると、5月4日、憤激した北京の学生を中心に、二十一カ条と親日的軍閥政府への抗議デモが行われ、政府の弾圧にも関わらず抗議運動は全国に広まっていきました(五・四運動)。
上海では学生・労働者のストライキと商店の休業が8日間続き、終に北京の軍閥政府は、親日官僚を罷免すると共にヴェルサイユ条約の批准を拒否、大衆運動が政府を動かしたのは中国史上初めての事でした。
※魯迅
少年時代に民間療法で病気の父を亡くした魯迅は、医者を志し1904年日本の仙台医学専門学校(現東北大医学部)に入学しました。
日清戦争後、中国人に対する蔑視が広がりつつあるなかで、藤野厳九郎教授が魯迅を気にかけ、ノートの日本語を添削する等の指導をしてくれた事を、彼は後年、深い感謝の気持ちとともに書き記しています(『藤野先生』)。
その仙台時代の事、幻灯機を使ったある講義で、時間が余ったのか教授が日露戦争の写真を映写しました。
勝利の場面が映し出される度に、学生達は熱狂して万歳と叫んでいました。
やがて、ロシア軍のスパイとして捕らえられた中国人が日本軍に銃殺される場面が映し出され、学生達はやはり万歳と叫びました。
その時、魯迅にとってショックだったのは、彼等の態度よりも、映し出された写真の中で、多くの中国人が銃殺される中国人をのんびりと見物している事だったのです。
このとき魯迅は、中国にとって必要なのは医学ではなく「彼らの精神を改造すること」だと思い立ち、1906年、医学校を退学した魯迅は文学の道を歩み始めました。
続く・・・

魯 迅 1881年9月25日 - 1936年10月19日
◎日本による中国に対する干渉強化
日本は、第一次大戦中の1915年、ヨーロッパ列強が中国から後退した間隙をついて、袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけました。
その内容は、ドイツが租借していた山東省膠州湾などの権益の日本への譲渡、中国東北地方での権利拡大、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置く事等、中国の主権を侵害するものでした。
袁世凱政府が最終的にこの要求を受けいれると、民族的危機意識が中国民衆に広がり、袁世凱死後も、その後継者段棋瑞が利権と引き替えに、日本から多額の援助を得る等、軍閥による政府の私物化は続いたのです。
◎文学革命
一方で、1910年代後半から、新中国・新社会をめざす文化・思想運動が始まりました。
文学革命とも新文化運動とも呼ばれるこの運動の中心となったのは、陳独秀が発行した雑誌『新青年』でした。
「民主主義と科学」を標榜し、封建制度や儒教思想、特に個人を縛り付ける伝統的家族制度を批判する論陣を張り、青年層に大きな影響を与え、同誌を舞台に、胡適による白話文学運動(文語だった書き言葉を口語に変えることを提唱)が展開され、魯迅は口語文学の傑作『狂人日記』『阿Q正伝』等を発表し、又、李大釗はマルクス主義を初めて中国に紹介しました。
やがて彼等を教授陣として迎えた北京大学は、文学革命の拠点と成って行きました。
◎中国全土に広がった五・四運動
1919年、第一次大戦が終わり、パリ講和会議が始まると、中国代表は「民族自決」に基づいて、日本の二十一カ条要求の破棄と、山東省の権益返還を要求しました。
しかし、中国政府の要求は拒否され、そのニュースが伝えられると、5月4日、憤激した北京の学生を中心に、二十一カ条と親日的軍閥政府への抗議デモが行われ、政府の弾圧にも関わらず抗議運動は全国に広まっていきました(五・四運動)。
上海では学生・労働者のストライキと商店の休業が8日間続き、終に北京の軍閥政府は、親日官僚を罷免すると共にヴェルサイユ条約の批准を拒否、大衆運動が政府を動かしたのは中国史上初めての事でした。
※魯迅
少年時代に民間療法で病気の父を亡くした魯迅は、医者を志し1904年日本の仙台医学専門学校(現東北大医学部)に入学しました。
日清戦争後、中国人に対する蔑視が広がりつつあるなかで、藤野厳九郎教授が魯迅を気にかけ、ノートの日本語を添削する等の指導をしてくれた事を、彼は後年、深い感謝の気持ちとともに書き記しています(『藤野先生』)。
その仙台時代の事、幻灯機を使ったある講義で、時間が余ったのか教授が日露戦争の写真を映写しました。
勝利の場面が映し出される度に、学生達は熱狂して万歳と叫んでいました。
やがて、ロシア軍のスパイとして捕らえられた中国人が日本軍に銃殺される場面が映し出され、学生達はやはり万歳と叫びました。
その時、魯迅にとってショックだったのは、彼等の態度よりも、映し出された写真の中で、多くの中国人が銃殺される中国人をのんびりと見物している事だったのです。
このとき魯迅は、中国にとって必要なのは医学ではなく「彼らの精神を改造すること」だと思い立ち、1906年、医学校を退学した魯迅は文学の道を歩み始めました。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント