2012/11/30

人類の軌跡その526:ヴェルサイユ体制の崩壊④

<イギリス>

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ズデーテン地方に侵攻したドイツ機甲師団(1号戦車)

◎経済不況と軍備

 イギリスは、第一次世界大戦には勝利したものの、人的、経済的損失は膨大なもので、戦前のイギリスの国際的な優位(パックス・ブリタニカ)は失われ、膨大な戦時債務の山だけが残りました。
1920年代には、国債償還のための予算が年間予算の半数、GNP7%という膨大な数字に達し、財政的硬直化が顕著に成ると同時に、衰退傾向にあった伝統的輸出産業の繊維、鉄鋼、石炭、造船産業の国際競争力の弱体化による恒常的な不景気は、大量の失業者を生み、経済再建は遅々として進まず、1929年の世界大恐慌の決定的な追い打ちを受けたのです。
この為、大戦間は、財政再建のために思い切った軍縮に迫られる事に成りました。

 しかし、1933年にドイツでヒトラー率いるナチス党の権力掌握は、イギリスに危惧を抱かせ、これに呼応して、1934年には国防関係委員会は、防衛費の増額と、ヨーロッパで戦えるだけの兵力の増強を政府に勧告します。
又、1935年ドイツのヴェルサイユ体制の重大な違反である再軍備宣言を行った事に対応して、イギリスは英独海軍協定を結んで、ドイツの再軍備化を部分的認める事と引き替えに、イギリスはドイツを国際協定の枠内に引き込みました。
更に1937年に第二次海軍協定をドイツと結び、第二回ロンドン海軍条約の国際制限を尊重させる政策を取りますが、結局長続きしませんでした。
大戦を避けられないと判断したイギリスは、1935年から向こう5年間に15億ポンド規模の再軍備計画を行いますが、軍備が整う間の時間稼ぎの為、ドイツを刺激しないように譲歩を重ねる政策(宥和政策)を進めたのです。

◎宥和政策とチェコスロヴァキア問題

 宥和政策とは、1937年に首相に就任したネヴィル・チェンバレンが押し進めた政策で、ナチス・ドイツに譲歩を行い平和を勝ち取ろうというものでした。
1938年2月には、対独強硬派であった外相アンソニー・イーデンが首相と対立して辞任に追い込まれた後、宥和政策が顕著と成り、後にこの政策は弱腰外交と非難される事になりますが、当時ドイツに対抗できる戦力を再建する為の時間稼ぎの一面も存在したのです。

 この宥和政策の典型と成ったのは、チェコスロヴァキア問題での対応で、当時、チェコスロヴァキアのドイツ系住民が多数住んでいたズデーテン地方の割譲をヒトラーが要求し、その要求が受けいられない場合は戦争をも辞さないという恫喝を行っていました。
これに対し、チェコスロヴァキア政府は断固として拒否、国内に動員令を布告し、戦争をも辞さない態度を示しましたが、世界大戦に発展する事を恐れた英仏列強はイタリアの仲介で、ミュンヘンでチェコ問題を協議(ミュンヘン会談)します。
 
 この会談は独伊英仏の4国のみで、当事国であるはずのチェコスロヴァキアは参加せず、会談の結果、チェコスロヴァキア政府のドイツへのズテーデン地方割譲とチェコスロバキアの独立保障が取り決められたのでした。
チェコスロヴァキア政府は已むなく、ズデーテン割譲を容認せざるを得ず、この会談によって、英首相ネヴィル・チェンバレンはこれで戦争は避けられたと宣言したのです。

 しかしヒトラーはミュンヘン協定を尊重する気配は一切持ち合わせず、1939年、ミュンヘン会議の取り決めを無視し、チェコ(ボヘミア・モラヴィア地方)を併合し、スロヴァキアを保護国化するという暴挙犯します。
これに対し、イギリス政府は面木を失い、従来の宥和政策を捨て去り、ドイツとの対決を明確にするようになりました。

続く・・・

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