人類の軌跡その528:ヴェルサイユ体制の崩壊⑥
<ソビエト連邦①>

平和とコミュニズムの為に戦う
◎成 立
第一次世界大戦のさなか、1917年11月17日の12月革命によって、権力を掌握したボルシェビキ勢力(ソ連共産党)には、幾多の難関が存在していました。
最初の難関は、交戦国ドイツとの関係修復で在り、当初は抗戦継続が行われたものの、1918年2月のドイツ軍大攻勢により戦線は崩壊、ドイツ軍が大挙して越境侵入する状況に陥ります。
ボリシェビキ政権は、レフ・トロツキー外相を中心に、1918年3月にドイツとの間に、ブレスト・リトフスク講和条約を締結します。
この条約には、旧ロシア領で在る現在のバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)、ベラルーシ、ウクライナを含める、西部の広大な(そして肥沃な)領土を割譲しなければなりませんでした。
次の難関は、この屈辱的条件を課したブレスト・リトフスク講和条約を結んだボリシェビキ政権に反抗し、ロシアの内外で反政府運動が活発化し、ロシアに内戦が勃発し、更にドイツとの単独講和に反発した連合軍が、懲罰を目的に内政干渉を行い、反ボルシェビキ勢力を援助した事でした(干渉戦争、シベリア出兵)。
この様にして発生した内戦は1920年までには終結しましたが、1922年に至るまで大規模な内乱・蜂起が散発し、シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結、1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立したのでした。
◎レーニンの死去とスターリンの権力掌握
1924年のレーニンの死後、後継者問題から権力闘争が激化し、党内右派のブハーリンと手を組んだスターリンが次第に頭角を現し、最大の政敵であった党内左派のトロツキーを最終的には1929年に国外追放する事に成功します(1940年に亡命先のメキシコで殺害)。
又、同じく対立していたカーメネフ、ジノヴィエフを1926年まで失脚させる事に成功(後に大粛清で処刑)。
しかし、そのブハーリンも後に粛清され、1938年5月13日銃殺、非業の死を遂げます。
大粛清によってジノヴィエフは、キーロフ暗殺事件に連座したとして党を除名の上、逮捕され、1935年に禁固10年の判決を受け、ウラルの政治犯収容所に収監、翌1936年「モスクワ裁判」でジノヴィエフは1932年にスターリン等党指導部に対するテロが計画されたという「合同本部」事件で告発され、十月革命の『裏切り』の件迄、追求されました。
ジノヴィエフは、スターリンに生命の保証を約束され有罪を認めた挙句、1936年8月25日にカーメネフら15人と共に死刑判決を受け、即刻同日に、助命嘆願を拒否された末銃殺されます。
1934年12月セルゲイ・キーロフ暗殺事件をきっかけに大粛清が開始され、カーメネフは逮捕、党を除名され1935年「モスクワ本部」事件で禁固5年の刑に、翌1936年別件で禁固10年の刑が宣告され、「合同本部」事件を処理する「モスクワ裁判」で、ジノヴィエフと同様にスターリンの奸計に嵌り、処刑を逃れる事を条件に有罪を自白したものの、1936年8月25日銃殺刑が執行されました。
続く・・・

平和とコミュニズムの為に戦う
◎成 立
第一次世界大戦のさなか、1917年11月17日の12月革命によって、権力を掌握したボルシェビキ勢力(ソ連共産党)には、幾多の難関が存在していました。
最初の難関は、交戦国ドイツとの関係修復で在り、当初は抗戦継続が行われたものの、1918年2月のドイツ軍大攻勢により戦線は崩壊、ドイツ軍が大挙して越境侵入する状況に陥ります。
ボリシェビキ政権は、レフ・トロツキー外相を中心に、1918年3月にドイツとの間に、ブレスト・リトフスク講和条約を締結します。
この条約には、旧ロシア領で在る現在のバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)、ベラルーシ、ウクライナを含める、西部の広大な(そして肥沃な)領土を割譲しなければなりませんでした。
次の難関は、この屈辱的条件を課したブレスト・リトフスク講和条約を結んだボリシェビキ政権に反抗し、ロシアの内外で反政府運動が活発化し、ロシアに内戦が勃発し、更にドイツとの単独講和に反発した連合軍が、懲罰を目的に内政干渉を行い、反ボルシェビキ勢力を援助した事でした(干渉戦争、シベリア出兵)。
この様にして発生した内戦は1920年までには終結しましたが、1922年に至るまで大規模な内乱・蜂起が散発し、シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結、1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立したのでした。
◎レーニンの死去とスターリンの権力掌握
1924年のレーニンの死後、後継者問題から権力闘争が激化し、党内右派のブハーリンと手を組んだスターリンが次第に頭角を現し、最大の政敵であった党内左派のトロツキーを最終的には1929年に国外追放する事に成功します(1940年に亡命先のメキシコで殺害)。
又、同じく対立していたカーメネフ、ジノヴィエフを1926年まで失脚させる事に成功(後に大粛清で処刑)。
しかし、そのブハーリンも後に粛清され、1938年5月13日銃殺、非業の死を遂げます。
大粛清によってジノヴィエフは、キーロフ暗殺事件に連座したとして党を除名の上、逮捕され、1935年に禁固10年の判決を受け、ウラルの政治犯収容所に収監、翌1936年「モスクワ裁判」でジノヴィエフは1932年にスターリン等党指導部に対するテロが計画されたという「合同本部」事件で告発され、十月革命の『裏切り』の件迄、追求されました。
ジノヴィエフは、スターリンに生命の保証を約束され有罪を認めた挙句、1936年8月25日にカーメネフら15人と共に死刑判決を受け、即刻同日に、助命嘆願を拒否された末銃殺されます。
1934年12月セルゲイ・キーロフ暗殺事件をきっかけに大粛清が開始され、カーメネフは逮捕、党を除名され1935年「モスクワ本部」事件で禁固5年の刑に、翌1936年別件で禁固10年の刑が宣告され、「合同本部」事件を処理する「モスクワ裁判」で、ジノヴィエフと同様にスターリンの奸計に嵌り、処刑を逃れる事を条件に有罪を自白したものの、1936年8月25日銃殺刑が執行されました。
続く・・・
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